|
Tu-22 (航空機) Tu-22M (航空機)
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。
Tu-22(ツポレフ22;ロシア語:トゥー・ドヴァーッツァチ・ドヴァー)は、ソ連のツポレフ設計局で開発された超音速爆撃機()。ソ連のパイロットたちからは、「錐」という意味の「シーロ」(シーラ)という渾名で呼ばれた。北大西洋条約機構(NATO)は、識別のため「ブラインダー」(:「目隠し」)というNATOコードネームをつけた。 爆撃機としてはペイロードや航続距離が小さく、必ずしも成功作とは言えなかったが、強い後退角を持つ主翼や、垂直尾翼の両脇に配置された大型のジェットエンジンなど、西側にはない斬新かつスマートなデザインは注目を浴びた。''トゥー・ドヴァーッツァチ・ドヴァー)は、ソ連のツポレフ設計局で開発された超音速爆撃機()。ソ連のパイロットたちからは、「錐」という意味の「シーロ」(シーラ)という渾名で呼ばれた。北大西洋条約機構(NATO)は、識別のため「ブラインダー」(:「目隠し」)というNATOコードネームをつけた。 爆撃機としてはペイロードや航続距離が小さく、必ずしも成功作とは言えなかったが、強い後退角を持つ主翼や、垂直尾翼の両脇に配置された大型のジェットエンジンなど、西側にはない斬新かつスマートなデザインは注目を浴びた。 == 概要 == === 開発 === Tu-22の開発は、ソ連空軍の主力中距離爆撃機となっていたTu-16を代替する目的で始められた。試作機である航空機105(サモリョート105;サマリョート・ストー・ピャーチ)は、ツポレフ設計局で1954年に設計された。しかし、初めての本格的な大型超音速機の開発は難航し、初飛行は1958年6月21日までずれ込んだ。その後、より強力なエンジンや中央航空流体研究所(TsAGI;ツァーギ)によって研究されたエリアルールを採用した新しい試作機航空機105A(サモリョート105A;サマリョート・ストー・ピャーチ・アー)が製造され、1959年9月7日に飛行した。この機体がTu-22として量産化に向かうこととなった。 Tu-22は当初、スマートな外観から「ビューティ」(:美人)というNATOコードネームを付けられたが、敵機の名前としては美しすぎるとのことで、「ブラインダー」に変更された、と長年言われていた。しかし実際は、1961年のツシノ航空ショーに出席した西側の武官がTu-22を見て「イッツ・ビューティ」(:こいつは綺麗だ)と呟いたのを、横にいた記者がNATOコードネームと捉えたために生じた誤解であった〔。また、この時同時に公開された大型戦闘機Tu-128(Tu-28)にもNATOコードネームに関する混乱があり、爆撃機と認識した西側はTu-128を「ブラインダー」と呼んでていた。その後、戦闘機と判明したTu-128のコードネームを「フィドラー」に変更し、宙に浮いた「ブラインダー」はTu-22のコードネームに割り当てられた〔。 Tu-22は、当初地上常設、海上および移動式の目標に対する超音速ミサイル爆撃機 (ロシア語では「超音速ロケット搭載爆撃機」を意味する「」と呼ぶ) として計画された。だが、最初の量産型であるTu-22およびTu-22Bではミサイルは搭載されず、旧来の爆撃機と変わらぬ自由落下型爆弾のみの運用となっていた。これら能力不足のシリーズは実質的には機体の実用化試験のための前量産機であり、少数しか生産されなかった。また、通常爆撃機型のTu-22Bが少数の生産に留まった原因としては、当時のソ連主席フルシチョフの「ミサイル万能論」の影響を受けたということもあげられている。 この理由により、Tu-22へのミサイル運用能力の付与は必須の課題となった。Tu-22初期型の配備に先駆け、1961年には当初より予定された本格的なミサイル爆撃機となるTu-22Kが初飛行に成功した。 Tu-22Kに搭載される空対地ミサイルはKh-22 ラードゥガ(;「」は「虹」の意味。NATOコードネーム AS-4 キッチン)と呼ばれる専用のもので、Tu-22の胴体に半埋め込み式で搭載されるものであった。また、Kh-22には対レーダーミサイル型のKh-22P ラードゥガ()も開発され、これを運用するシステムも開発された。Tu-22は従来どおりの自由落下型爆弾も搭載可能で、その場合は13 tまでの爆弾を爆弾格納庫へ積載できた。これ以外にもTu-22は機外装備として、主翼下面に各1 基の小型爆弾架を積載できた。 Tu-22の搭載エンジンにはドブルィーニン設計局製の強力なターボジェットエンジンRD-7Mが選ばれ、2 基が尾部に集中搭載された。このエンジンはアフターバーナー付きの大型のもので、55度の後退角をもつ主翼と相俟って、当時の大型機としては驚くべき数値であった1600 km/hの最高速度を叩き出した。発展型のTu-22Kでは、エンジンは改良型のRD-8Mに変更された。ただ、エンジンの装備位置が非常に高かったため、整備の際には特別に足場を用意する必要があるなど、運用面では苦労もあった。 Tu-22からは、爆撃機以外にもさまざまな派生型が開発された。もっとも多数が生産されたのは爆撃能力を残した前線偵察機型であるTu-22Rであった。そのほか、Tu-22の派生型の中でも空軍においてもっとも重要な位置を占めたのは、近代的な電子戦に効力を発揮する電子戦機型や電子情報収集機型であった。これらは、ソ連空軍にとっての初の同種の機体として配備された。この他、Tu-22は「殺人機」と呼ばれたほど操縦が困難な機体であったので、専用の訓練用機材も開発された。Tu-22UおよびTu-22UDと呼ばれる4 人乗りの機体は、46機が製造されたことになっている。Tu-22シリーズは、1969年までの間に全派生型合わせて311機が製造された。''サマリョート・ストー・ピャーチ)は、ツポレフ設計局で1954年に設計された。しかし、初めての本格的な大型超音速機の開発は難航し、初飛行は1958年6月21日までずれ込んだ。その後、より強力なエンジンや中央航空流体研究所(TsAGI;ツァーギ)によって研究されたエリアルールを採用した新しい試作機航空機105A(サモリョート105A;サマリョート・ストー・ピャーチ・アー)が製造され、1959年9月7日に飛行した。この機体がTu-22として量産化に向かうこととなった。 Tu-22は当初、スマートな外観から「ビューティ」(:美人)というNATOコードネームを付けられたが、敵機の名前としては美しすぎるとのことで、「ブラインダー」に変更された、と長年言われていた。しかし実際は、1961年のツシノ航空ショーに出席した西側の武官がTu-22を見て「イッツ・ビューティ」(:こいつは綺麗だ)と呟いたのを、横にいた記者がNATOコードネームと捉えたために生じた誤解であった〔。また、この時同時に公開された大型戦闘機Tu-128(Tu-28)にもNATOコードネームに関する混乱があり、爆撃機と認識した西側はTu-128を「ブラインダー」と呼んでていた。その後、戦闘機と判明したTu-128のコードネームを「フィドラー」に変更し、宙に浮いた「ブラインダー」はTu-22のコードネームに割り当てられた〔。 Tu-22は、当初地上常設、海上および移動式の目標に対する超音速ミサイル爆撃機 (ロシア語では「超音速ロケット搭載爆撃機」を意味する「」と呼ぶ) として計画された。だが、最初の量産型であるTu-22およびTu-22Bではミサイルは搭載されず、旧来の爆撃機と変わらぬ自由落下型爆弾のみの運用となっていた。これら能力不足のシリーズは実質的には機体の実用化試験のための前量産機であり、少数しか生産されなかった。また、通常爆撃機型のTu-22Bが少数の生産に留まった原因としては、当時のソ連主席フルシチョフの「ミサイル万能論」の影響を受けたということもあげられている。 この理由により、Tu-22へのミサイル運用能力の付与は必須の課題となった。Tu-22初期型の配備に先駆け、1961年には当初より予定された本格的なミサイル爆撃機となるTu-22Kが初飛行に成功した。 Tu-22Kに搭載される空対地ミサイルはKh-22 ラードゥガ(;「」は「虹」の意味。NATOコードネーム AS-4 キッチン)と呼ばれる専用のもので、Tu-22の胴体に半埋め込み式で搭載されるものであった。また、Kh-22には対レーダーミサイル型のKh-22P ラードゥガ()も開発され、これを運用するシステムも開発された。Tu-22は従来どおりの自由落下型爆弾も搭載可能で、その場合は13 tまでの爆弾を爆弾格納庫へ積載できた。これ以外にもTu-22は機外装備として、主翼下面に各1 基の小型爆弾架を積載できた。 Tu-22の搭載エンジンにはドブルィーニン設計局製の強力なターボジェットエンジンRD-7Mが選ばれ、2 基が尾部に集中搭載された。このエンジンはアフターバーナー付きの大型のもので、55度の後退角をもつ主翼と相俟って、当時の大型機としては驚くべき数値であった1600 km/hの最高速度を叩き出した。発展型のTu-22Kでは、エンジンは改良型のRD-8Mに変更された。ただ、エンジンの装備位置が非常に高かったため、整備の際には特別に足場を用意する必要があるなど、運用面では苦労もあった。 Tu-22からは、爆撃機以外にもさまざまな派生型が開発された。もっとも多数が生産されたのは爆撃能力を残した前線偵察機型であるTu-22Rであった。そのほか、Tu-22の派生型の中でも空軍においてもっとも重要な位置を占めたのは、近代的な電子戦に効力を発揮する電子戦機型や電子情報収集機型であった。これらは、ソ連空軍にとっての初の同種の機体として配備された。この他、Tu-22は「殺人機」と呼ばれたほど操縦が困難な機体であったので、専用の訓練用機材も開発された。Tu-22UおよびTu-22UDと呼ばれる4 人乗りの機体は、46機が製造されたことになっている。Tu-22シリーズは、1969年までの間に全派生型合わせて311機が製造された。''サマリョート・ストー・ピャーチ・アー)が製造され、1959年9月7日に飛行した。この機体がTu-22として量産化に向かうこととなった。 Tu-22は当初、スマートな外観から「ビューティ」(:美人)というNATOコードネームを付けられたが、敵機の名前としては美しすぎるとのことで、「ブラインダー」に変更された、と長年言われていた。しかし実際は、1961年のツシノ航空ショーに出席した西側の武官がTu-22を見て「イッツ・ビューティ」(:こいつは綺麗だ)と呟いたのを、横にいた記者がNATOコードネームと捉えたために生じた誤解であった〔。また、この時同時に公開された大型戦闘機Tu-128(Tu-28)にもNATOコードネームに関する混乱があり、爆撃機と認識した西側はTu-128を「ブラインダー」と呼んでていた。その後、戦闘機と判明したTu-128のコードネームを「フィドラー」に変更し、宙に浮いた「ブラインダー」はTu-22のコードネームに割り当てられた〔。 Tu-22は、当初地上常設、海上および移動式の目標に対する超音速ミサイル爆撃機 (ロシア語では「超音速ロケット搭載爆撃機」を意味する「」と呼ぶ) として計画された。だが、最初の量産型であるTu-22およびTu-22Bではミサイルは搭載されず、旧来の爆撃機と変わらぬ自由落下型爆弾のみの運用となっていた。これら能力不足のシリーズは実質的には機体の実用化試験のための前量産機であり、少数しか生産されなかった。また、通常爆撃機型のTu-22Bが少数の生産に留まった原因としては、当時のソ連主席フルシチョフの「ミサイル万能論」の影響を受けたということもあげられている。 この理由により、Tu-22へのミサイル運用能力の付与は必須の課題となった。Tu-22初期型の配備に先駆け、1961年には当初より予定された本格的なミサイル爆撃機となるTu-22Kが初飛行に成功した。 Tu-22Kに搭載される空対地ミサイルはKh-22 ラードゥガ(;「」は「虹」の意味。NATOコードネーム AS-4 キッチン)と呼ばれる専用のもので、Tu-22の胴体に半埋め込み式で搭載されるものであった。また、Kh-22には対レーダーミサイル型のKh-22P ラードゥガ()も開発され、これを運用するシステムも開発された。Tu-22は従来どおりの自由落下型爆弾も搭載可能で、その場合は13 tまでの爆弾を爆弾格納庫へ積載できた。これ以外にもTu-22は機外装備として、主翼下面に各1 基の小型爆弾架を積載できた。 Tu-22の搭載エンジンにはドブルィーニン設計局製の強力なターボジェットエンジンRD-7Mが選ばれ、2 基が尾部に集中搭載された。このエンジンはアフターバーナー付きの大型のもので、55度の後退角をもつ主翼と相俟って、当時の大型機としては驚くべき数値であった1600 km/hの最高速度を叩き出した。発展型のTu-22Kでは、エンジンは改良型のRD-8Mに変更された。ただ、エンジンの装備位置が非常に高かったため、整備の際には特別に足場を用意する必要があるなど、運用面では苦労もあった。 Tu-22からは、爆撃機以外にもさまざまな派生型が開発された。もっとも多数が生産されたのは爆撃能力を残した前線偵察機型であるTu-22Rであった。そのほか、Tu-22の派生型の中でも空軍においてもっとも重要な位置を占めたのは、近代的な電子戦に効力を発揮する電子戦機型や電子情報収集機型であった。これらは、ソ連空軍にとっての初の同種の機体として配備された。この他、Tu-22は「殺人機」と呼ばれたほど操縦が困難な機体であったので、専用の訓練用機材も開発された。Tu-22UおよびTu-22UDと呼ばれる4 人乗りの機体は、46機が製造されたことになっている。Tu-22シリーズは、1969年までの間に全派生型合わせて311機が製造された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「Tu-22 (航空機)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tupolev Tu-22 」があります。 スポンサード リンク
|