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ティム・ハーダウェイ(Tim Hardaway 本名:Timothy Duane Hardaway) 1966年9月1日 - )はアメリカ合衆国出身の元バスケットボール選手。アメリカプロリーグNBAで活躍し、90年代を代表する選手の一人。183cmと小柄ながら妙技「キラークロスオーバー」を武器に、超攻撃型ポイントガードとして活躍した。2000年のシドニー五輪金メダリスト。オールスター戦には5度出場。イリノイ州シカゴ出身。息子のティム・ハーダウェイ・ジュニアもNBA選手で、アトランタ・ホークスに所属している。 == 経歴 == 大学時代にはテキサス州大エルパソ校でプレイ。4年生の時には平均22得点、4リバウンド、5.4アシストの記録を残し、身長6フィート(183センチ)以下の優秀な選手に贈られるフランシス・ポメロイ・ネイスミス賞を受賞した。 大学を卒業すると、全体14位でゴールデンステート・ウォリアーズに指名された。1年目は平均得点14.7、アシスト8.7と新人としては優秀な成績を収め、オールルーキーファーストチームに選出された。 2年目以降ハーダウェイの平均得点は20を越えた。当時のウォリアーズは、クリス・マリンやミッチ・リッチモンドを擁したリーグ屈指の得点力を持つチームだった。ハーダウェイとマリン、リッチモンドはチームの稼ぎ頭で、3人はそれぞれの頭文字から当時人気のあったミュージシャン「ラン・DMC」をもじって「ラン・TMC」の異名で呼ばれた。 3年目は平均得点23.4で平均アシスト数は10、4年目は平均得点21.5で平均アシスト10.6。2年連続で平均得点20、アシスト10を越えたのはリーグ史上ハーダウェイで5人目だった。また4年目の1992-93シーズン中には、NBA史上2番目の早さで通算得点5,000、通算アシスト2,500に達した。 このシーズンは膝の怪我で16試合を欠場し、のちにハーダウェイを悩ます膝の故障に見舞われた最初のシーズンとなった。1993-94シーズンは膝の怪我で全試合欠場した。 1996年のシーズン中にマイアミ・ヒートにトレードされ、パット・ライリー監督指揮のもとアロンゾ・モーニングやジャマール・マッシュバーンらとチームを組むことになった。ハーダウェイはリーグ屈指のポイントガードだった嘗てのプレーレベルを取り戻し、ヒートも東地区を代表する強豪となった。ヒート2年目の1997年にはオールNBAファーストチーム入りを果たした。 チームは毎年地区屈指の成績を残しながらもシカゴ・ブルズやニューヨーク・ニックスなどに阻まれ、優勝の機会を得られないまま数年を過ごし、30代の半ばに近づきつつあったハーダウェイの個人成績は徐々に低下していった。2000-01シーズンを最後に、ハーダウェイはダラス・マーベリックスと契約し、翌シーズン中にデンバー・ナゲッツに放出された。このシーズンは平均得点は10を下回り、平均アシストも5以下だった。 翌シーズン、ハーダウェイはどのチームでもプレイせず、ESPN局で放送されたNBAの試合で解説を務めた。次の2002-03シーズン末にインディアナ・ペイサーズとフリーエージェントとして契約、10試合に出場し、シーズン終了後に引退した。 ハーダウェイは1994年のバスケットボール世界選手権大会にドリームチームIIのメンバーに選出されたが、故障で出場は出来なかった(ケビン・ジョンソンが代役に選ばれた)。2000年のシドニーオリンピックでも米国代表チームに選出され、こちらは金メダルを獲得した。 2005年、ABAのフロリダ・ピットブルズ(現在のマイアミ・マジェスティ)のヘッドコーチと副オーナーに就任した。チームは2007年よりCBAへ参入する。 2009年9月17日にマイアミ・ヒートの永久欠番となった。 2013年2月15日に殿堂入り候補に選ばれた。 2014年からスタン・ヴァン・ガンディのもとデトロイト・ピストンズのアシスタントコーチとなり、コーチングのキャリアをスタートさせた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ティム・ハーダウェイ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tim Hardaway 」があります。 スポンサード リンク
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