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テオドリック1世 (Theodoric IまたはTeodoredo I、?年 - 451年)は、西ゴート王。アラリック1世の庶子、または義理の息子とも言われている。 ==勢力の拡大== 418年、テオドリック1世はワリアの後継者として即位した。ローマ人たちは、ワリアに西ゴート族を連れてイベリア半島からガリアへ移るよう命じていた。テオドリック1世は、ガリア・アクイタニア、ノウェンポプラニア、ガリア・ナルボネンシスへの西ゴート族定住を完了させ、その後西ローマ帝国の衰退に乗じて領土を南へ拡大した。 ホノリウス帝の死後423年にヨアンネス(en)が帝位を簒奪すると、内乱がローマ帝国内で発生した。テオドリック1世はこの状況を利用して、重要な道路の交差路であったアルルを攻略しようとしたが、マギステル・ミリトゥムのアエティウスがフン族の協力を得てアルルを救った〔Prosper, ''Epitoma chronicon'' 1290, in: MGH Auctores antiquissimi (AA) 9, p. 471; ''Chronica Gallica of 452'', 102, in: MGH AA 9, p. 658; Sidonius Apollinaris, ''letters'' 7. 12. 3〕。 西ゴート族は条約を結んで、ガリア貴族を人質として獲得した。のちに皇帝となるアウィトゥス(en)はテオドリック1世を訪問し、西ゴートの宮廷に滞在してテオドリックの息子たちに学問を教えた〔Sidonius Apollinaris, ''carmen'' 7. 215sqq.; 7. 495sqq.〕。 435年にフランク族がケルンやトリアーを略奪すると、ローマ人たちは彼らを征伐することを考えた。テオドリック1世は、地中海やピレネー山脈とのアクセスの良いナルボを攻略する絶好の機会ととらえた。しかしフン族の協力を受けたリトリウスはナルボ攻略を阻止し、西ゴート族を彼らの首都トローサへと駆逐した〔Prosper, ''Epitoma chronicon'' 1324 and 1326, in: MGH AA 9, p. 475; Hydatius, ''chronicle'' 107 und 110, in: MGH AA 11, p. 22-23; Merobaudes, ''panegyric'', fragment II A 23, in: Vollmer, MGH AA 14, p. 9; Sidonius Apollinaris, ''carmen'' 7. 246sqq.; 7. 475sqq.〕。テオドリックの和平の申し出は拒絶されたが、王はトローサで決定的な勝利を収めた。負傷したリトリウスは西ゴートに囚われたまま死亡した〔Prosper, ''Epitoma chronicon'' 1335, in: MGH AA 9, p. 476; Hydatius, ''chronicle'' 116, in: MGH AA 11, p. 23; Salvian, ''de gubernatione dei'' 7. 9. 39sqq.〕。アエティウスの命令でアウィトゥスはトローサへ向かい、和平を申し出てテオドリックはこれを受け入れた〔Prosper, ''Epitoma chronicon'' 1338, in: MGH AA 9, p. 477; Hydatius, ''chronicle'' 117, in: MGH AA 11, p. 23; Sidonius Apollinaris, ''carmen'' 7. 295sqq.〕。おそらく当時、ローマ人は西ゴート族国家の主権を認めたのである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「テオドリック1世」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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