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テオドール・シャセリオー : ミニ英和和英辞書
テオドール・シャセリオー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

テオドール・シャセリオー : ウィキペディア日本語版
テオドール・シャセリオー[ちょうおん]


テオドール・シャセリオーThéodore Chassériau, 1819年9月20日 - 1856年10月8日)は、フランス画家ロマン主義に属する。自画像、歴史画、宗教画、寓意的な壁画、それにアルジェリア旅行にインスパイアされたオリエンタリズム溢れる作品が有名である。
==生涯と作品==
シャセリオーは、カリブ海に浮かぶイスパニョーラ島のサマナ(現ドミニカ共和国)に生まれた。父親はフランス人で、島がまだフランスの植民地(サン=ドマング)だった頃は行政職だった。母親はクレオールの地主の娘だった。1821年、家族はパリに移り、そこでシャセリオーはスケッチに早熟な才能を見せた。1830年、11歳の時、シャセリオーはアングルのアトリエに入ることを認められ、この新古典主義巨匠の愛弟子となった。アングルは人々にこう言ったそうだ。「見たまえ、紳士諸君。この子はきっと絵のナポレオンになるよ」〔Guégan et al., 2002, p. 168.〕。
1834年、アングルがローマのフランス・アカデミー院長を務めるためパリを離れた後、シャセリオーは、アングルがその着色法をひどく嫌っていたドラクロワの影響に傾いた。シャセリオーの絵の特徴でよく言われてきたのが、アングルの新古典主義とドラクロワのロマン主義を調和させる試み、ということだ。1836年、シャセリオーはサロンに最初の絵の出品をした。その絵は歴史画のジャンルで、第3席に選ばれた〔Guégan et al., 2002, p. 170.〕。1840年、シャセリオーはローマに旅行しアングルと再会したが、アングルは愛弟子の向かっている方向性を面白く思うはずがなく、師弟関係も解消された。

シャセリオーの初期の円熟味を示す主な作品を挙げると、『スザンナと長老たち』(1839年)、『海から上がるヴィーナス』(1839年)、『アクテオンに驚くディアナ』(1840年)、『ネレイスに岩に鎖で縛られるアンドロメダ』(1840年)、『エステルの化粧』(1841年)などで、どの作品にもシャセリオーが理想とする女性の裸像を見ることができる。同じ時代に描かれた宗教画では、『オリーブ山のキリスト』(1840年。同じテーマで1844年にも描いた)、『キリスト降架』(1842年)があるが、批評家には賛否両論だった。ちなみに、擁護した批評家の中にはテオフィル・ゴーティエがいた。また、パリのサン・メリ教会からの依頼で、エジプトのマリアの一生を描いた壁画を描いた。
この頃から肖像画も描き出した。『ドミニコ会ドミニク・ラコルデール神父の肖像』(1840年)、 それにシャセリオーの姉妹アデルとアリーヌを描いた『二人姉妹』(1843年)などがある。
生涯を通じてデッサンも数多く描いた。肖像画のスケッチの多くは、グラフィック・ペンシルできれいに描かれたそれらはかつての師アングルのものに近いものである。さらに29の版画の元絵を作った。シェイクスピアの『オセロ』をテーマにした18のエッチング集(1844年)などである。
1846年、大作『護衛を引き連れたコンスタンティンのカリフにしてハラクタスの首長アリ・ベン・ハメト』を描きあげた直後、シャセリオーは最初のアルジェリア旅行をした。その旅とそれ以降の旅で描いたスケッチから、『臣下を訪問するアラブの首長』(1949年)、『バルコニーのユダヤ人女性』(1949年)を制作した。後期の代表作『テピダリウム』(1853年。オルセー美術館蔵)はたくさんの女性たちがお風呂で濡れた体を乾かしている姿が描かれている。この舞台設定は、シャセリオーが1840年に行ったポンペイ旅行にインスパイアされたものである。モニュメントでは、1844年に国から依頼を受け、1848年に完成した、フランス会計院の大階段の装飾がある。しかし、この装飾は、パリ・コミューン時代の1871年5月に起きた火事でかなりの損害を受け、復原されたわずかな断片は現在ルーヴル美術館に保管されている。
病気を患った後、サン・ロックならびにサン・フィリップ・デュ・ルール教会の装飾壁画を手掛けるが、これで心身疲れ果てたのだろう、病気が悪化して、1856年10月18日、シャセリオーは37歳の若さでパリで亡くなった。
シャセリオーの作品はピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌギュスターヴ・モローの作風に強い影響を与えた。さらに、シャヴァンヌらの作品を通じて、ポール・ゴーギャンアンリ・マティスの作品にも反映されていると言われている〔Guégan et al., 2002, p. 287.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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