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テオドール・ホイス : ミニ英和和英辞書
テオドール・ホイス[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

テオドール・ホイス : ウィキペディア日本語版
テオドール・ホイス[ちょうおん]

テオドーア・ホイス(Theodor Heuss, 1884年1月31日 - 1963年12月12日)は、ドイツ西ドイツ)の初代連邦大統領(在職:1949年 - 1959年)。ジャーナリスト政治学者政治家
== 経歴 ==

=== ジャーナリスト ===
ブラッケンハイム(現バーデン=ヴュルテンベルク州)の出身。ミュンヘンベルリン経済学政治学歴史学哲学美術史を学ぶ。1905年にミュンヘン大学ルヨ・ブレンターノの指導の下、「ネッカー川沿いハイルブロンにおけるブドウ栽培とブドウ農家の現状」と題する論文で博士号を取得。1905年から1912年まで、ベルリンでフリードリッヒ・ナウマンの下で雑誌「Die Hilfe」を発行。1908年にエリー・クナップと結婚し一男をもうける。第一次世界大戦中に同盟国トルコイスタンブルにある「ドイツ・トルコ友好の家」を設計し、その開所式は1917年にナウマンによって行われている。1912年‐1918年、ハイルブロンで「ネッカー新聞」の編集長。同時にミュンヘンで雑誌「美術展望」の芸術面を担当していた。1920年から1933年まで、ベルリンにあるドイツ政治高等学院で講師を務め、同時に「ドイツ国民」という雑誌を刊行していた(1923‐1926年)。また1918年から1933年まで、ドイツ工作連盟の経理と経営代表委員を務めていた。
ホイスは1903年にリベラル左派の「ドイツ自由意志連盟」に加入。1909年に「進歩的人民党」に替わる。1918年にはドイツ民主党 (DDP) の設立に参加。1919年にベルリン・シェーネベルク区の区議会議員に当選した。1930年にDDPはドイツ国家党 (DStP) に合流する。1924‐1928年と1930‐1933年の間、ホイスはヴァイマール共和政下のドイツ帝国議会の議員であった。ナチスが政権を獲得したのちの1933年3月23日、アドルフ・ヒトラー内閣が提出した全権委任法に、同じ党のエルンスト・レンマーラインホルト・マイアーらとともに賛成票を投じた。この法律はナチスの一党独裁を許すことになったので、ホイスのこの行動はのちのちまで批判の対象になったが、ホイス自身は賛成に投じることに反対だったが党議拘束や党内の多数派に同調して賛成票を投じたと説明している。ともあれ法案は可決され、他ならぬこの法に基づいて、その年7月にホイスらナチス以外の党の議席権は抹消された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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