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テオフィル・ゴーチェ : ミニ英和和英辞書
テオフィル・ゴーチェ[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

フィル : [ふぃる]
 【名詞】 1. fill 2. (n) fill
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

テオフィル・ゴーチェ ( リダイレクト:テオフィル・ゴーティエ ) : ウィキペディア日本語版
テオフィル・ゴーティエ[ちょうおん]

ピエール・ジュール・テオフィル・ゴーティエ (Pierre Jules Théophile Gautier,1811年8月30日 - 1872年10月23日)は、フランス詩人小説家劇作家。文芸批評、絵画評論、旅行記も残した。日本では「ゴーチエ」とも表記される。また、よりフランス語の発音に近い表記は「ゴティエ」である。
==生涯==
タルブ(現在のオート=ピレネー県の県都)で生まれ、父の転勤で3歳からパリで育った。はじめは画家を志したが、中学の上級生ネルヴァルの影響で詩作にも励み、学生時代にネルヴァルの紹介でヴィクトル・ユーゴーと出会い、ロマン派詩人として出発する。いわゆる青年フランス派に属し、1830年の"エルナニ合戦"(''Bataille d'Hernani'')ではロマン派の先頭に立って活躍している。当時仏訳されたE.T.A.ホフマンの影響を受けて、愛と死をテーマにした多くの幻想的な作品を書いた。
やがて当時のロマン主義者達の並はずれた自我の誇示・感情の吐露に反発し、没個性的で正確な描写を試みるようになる。また、その個人的感情を外界の冷静な描写に流し込むようになり、ロマン主義から脱した。また当時の政府の出版物への弾圧により、ゴーティエの評論等も掲載禁止とされた、小説「モーパン嬢」の序文においてはロマン主義の社会有用説を痛烈に批判している。
一時は画家を目指したことから、感情の美よりも外形の美に心をひかれ、「芸術のための芸術」を主張。形態と色彩と光沢への美に憧れ、画家や彫刻家が絵筆とのみで表そうとする美を、彼は詩人としてペンで表そうとした。
ロマンティック・バレエのために、いくつかシナリオを書いており、カルロッタ・グリジが最初に踊ったことで知られる『ジゼル』が有名である。グリジは彼が生涯で一番愛した女性だったが、彼女がそれを受け入れることはなく、彼はグリジの妹で歌手のエルネスティーヌと結婚し、2女をもうけた〔渡辺守章編・解説 『舞踊評論』 新書館、1994年〕。娘のジュデト・ゴーティエ〔娘ジュディットの代表作に児童文学『白い象の伝説』(1894年刊で、多数の挿絵はアルフォンス・ミュシャによる)がある。〕も作家で、その美貌で知られた〔彼女の文学的生涯は、吉川順子『詩のジャポニズム ―ジュディット・ゴーチェの自然と人間』 (京都大学学術出版会、2012年)に詳しい。 〕。明るく楽天的な性質だったとされるが、その一方でたいへんな迷信家であったと言われる。晩年の幻想的な作品である『アヴァタール』、『邪眼』、『精霊』などにはその傾向が現れており、スウェーデンボルグの影響も認められる。

1863年に、大半を若き日に執筆していた『キャプテン・フラカス』が大きな成功となる。1865年マティルド・ボナパルトのサロンに招かれたのをきっかけに、皇帝ナポレオン3世の宮廷へつながる足がかりを得た。
シャルル・ボードレールより、『悪の華』巻頭で「十全無瑕の詩人にして完璧なるフランス文学の魔術師テオフィル・ゴーチエ氏に」〔田辺貞之助の解説(『死霊の恋・ポンペイ夜話 他三編』岩波文庫、初版1982年)〕という献辞を受けた。ゴーティエもボードレールの死後に追悼文と作家論を書き、新版『悪の華』の序文としている。また若き日のラフカディオ・ハーンが愛読し英訳〔『クラリモンド 恋する死霊 英・仏対訳』(ハーン英訳、佐竹竜照・内田英一訳注、大学書林、1997年)を参照、巻末に英訳からの日本語訳がある。〕 も行っている。
1872年、長年苦しんだ心臓病によりパリで没し、モンマルトル墓地に埋葬された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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