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翟 釗(てき しょう、拼音:Dí Zhāo、生没年不詳)は、五胡十六国時代の翟魏の君主。翟遼の子。 ==生涯== 387年1月、翟遼は子の翟釗に陳,穎を略奪させたが、豫州刺史の朱序が派遣した秦膺によって撃退された。 建光3年(390年)8月、劉牢之は翟釗を鄄城で撃ち、翟釗は河北に奔走した。 建光4年(391年)10月、翟遼が死去し、子の翟釗が代わって立ち、改元して定鼎とした。翟釗は後燕の鄴城を攻めたが、後燕の遼西王である慕容農によって撃退された。 定鼎2年(392年)2月、後燕の君主である慕容垂は魯口から河間,渤海,平原に及んだ。翟釗はその将翟都を遣わして館陶を侵し、蘇康塁に駐屯させた。3月、慕容垂は兵を率いて南の翟釗を撃った。4月、翟都は南の滑台に奔走、翟釗は滑台で慕容垂に討たれ、黎陽に退いた。6月、慕容垂が黎陽津に到達し、渡河しようとするのを、翟釗は南岸に列兵してこれを拒んだ。慕容垂は偽の兵をつかって翟釗の注意を引き、その隙に渡河を成功させた。これを聞いた翟釗は妻子と数百騎を連れて北の白鹿山に奔走した。慕容農はこれを追撃してその衆を捕えたが、翟釗のみは単騎で西燕の長子に奔走した。慕容垂は翟釗の統領していた七郡3万8千戸を以前のように処遇し、徐州の流人7千数戸を黎陽に遷した。翟釗は西燕の君主慕容永に救いを求めて西燕に降り、慕容永から車騎大将軍,東郡王に封ぜられる。 1年余りして、翟釗は慕容永を殺そうと謀ったため、慕容永によって誅殺された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「テキショウ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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