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チェシン( 、、(テシェン))は、ポーランド南部のシロンスク県チェシン郡に位置する国境の町。同郡の郡庁所在地で、人口は3万6109人(2004年)である。オーデル川支流のオルザ川に臨み、対岸はチェコのチェスキー・チェシーンである。 歴史的にチェシン・シロンスク地方の中心地であるチェシンは、第一次世界大戦後の1918年までチェシン公国の首都であった。1920年、同地方がポーランドとチェコスロバキアに分割されると、チェシンも一部の地区がチェスキー・チェシーンとしてチェコスロバキア領に編入され、その以外の地域はポーランド領となった。チェコ側をあわせると、市の人口は6万1201人におよぶ。 町内の建物には、ポーランドとオーストリア双方の建築様式の影響がみられる。過去に何回か見舞われた大火(最近では18世紀後半)のつど再建されたためで、旧市街の美しい景観はしばしば「小ウィーン」と呼ばれる。そのほか、古代に築かれた城の唯一の遺構である12世紀の正方形の塔や、10世紀のロマネスク様式の礼拝堂がある。 == 歴史 == この地域には、7世紀までにスラブ人が定住した。言い伝えによると、公爵の3人息子であるボルコ、レシュコ、チェシュコが長旅を終えて会見したとき、泉を見つけたためこの地に村をつくそうと決めたという。3人は「私は幸せだ」という意味のことば ''cieszym się'' から、この地をチェシンと呼んだ。この泉の井戸はいまも、町の広場の西の「三人兄弟通り」で見ることができる〔Cieszyn - Tourism | Tourist Information - Cieszyn, Poland 〕〔The legend is inscribed on the Well of the Three Brothers in Cieszyn.〕。 町はチェシン公国の首都であったため、その歴史は公国の歴史でもある。1779年5月13日、マリア・テレジアとフリードリヒ大王がバイエルン継承戦争の講和条約であるテッシェン条約を結んだ。チェシンはドイツ人、ポーランド人、ユダヤ人、チェコ人のコミュニティからなる民族的、宗教的、文化的多様性で知られていた〔Wawreczka et al. 1999, 13.〕。またハンガリー人のコミュニティも存在し、少数ながら多くの官吏を輩出していた〔Wawreczka et al. 1999, 10.〕。 オーストリア=ハンガリー帝国の1910年の国勢調査では、町の人口は2万2489人だった。そのうち1万3254人 (61.5%) がドイツ語を、6832人 (31.7%) がポーランド語を、1437人 (6.7%) がチェコ語を母語とした。イディッシュ語と答えるのは認められなかったため、ユダヤ人はほとんどがドイツ語を母語として答えた。宗教ではローマ・カトリックが1万5138人 (67.3%) で最も多く、以下プロテスタントの5174人 (23%) 、ユダヤ教の2112人 (9.4%) と続いた〔Ludwig Patryn (ed): ''Die Ergebnisse der Volkszählung vom 31. Dezember 1910 in Schlesien '', Troppau 1912.〕。 ヴェルサイユ条約締結後のスパ会議をうけて、町は1920年7月、広大なポーランド人コミュニティがチェコスロバキアに割譲される形で分割された。その西部が、現在のチェコ共和国のチェスキー・チェシーンである。1938年10月にポーランドがザオルジエ地方を併合すると、両者はまたひとつの町になった。その翌年にドイツ軍が侵攻し、第二次世界大戦中はナチス・ドイツの支配下に置かれた。戦後、ポーランドとチェコスロバキアの国境は1920年の状態に戻された。 戦間期、チェシンは1923年にブウォゴツィツェ、1932年にボブレクを編入した。また、戦後は1973年にボグスゾウィツェ、グウドウィ、カレンビツェ、クラスナ、ムニシュトウォ、パストウィスカと合併し、1977年にはマルクロウィツェを加えた。 ポーランドとチェコが欧州連合とシェンゲン協定に加盟してからは、国境管理が廃止されたため、両国の住民が自由に国境を通過できるようになった。 1970年7月19日、オルザ川にかかる橋が大洪水のため崩落し、チェシンの消防士5名が死亡した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チェシン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Cieszyn 」があります。 スポンサード リンク
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