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テッド・ライオンズ : ミニ英和和英辞書
テッド・ライオンズ[らいおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ライオン : [らいおん]
 【名詞】 1. lion 2. (n) lion

テッド・ライオンズ : ウィキペディア日本語版
テッド・ライオンズ[らいおん]

セオドア・アマール・ライオンズTheodore Amar "Ted" Lyons, 1900年12月28日 - 1986年7月25日)は、1920 - 1940年代に活躍したアメリカ合衆国ルイジアナ州レイクチャールズ出身のプロ野球選手投手)。右投両打。ニックネームは"Sunday Teddy"(サンデー・テディ)。
== 略歴 ==
1923年7月にホワイトソックスに入団。翌年から先発ローテーションの一角を担う。ライオンズはいわゆる打たせて取るタイプの投手で、全てのキャリアを通じてシーズンの奪三振数が80を超えたことが一度もなかったが、3年目の1925年には21勝、1927年には22勝を挙げて最多勝投手に2度輝いている。また1926年の8月21日にはノーヒットノーランを達成、その時の試合時間はわずか67分だった。
その後1931年に4勝と成績が落ち込んだ以外は、毎年コンスタントに2桁勝利を挙げる安定した活躍を見せていたが、30代後半にさしかかる1935年頃から、登板の回数は徐々に減っていく。1939年、当時ホワイトソックスの監督だったジミー・ダイクスは、38歳になっていたライオンズを、日曜日のデーゲームごとに登板させるようにした。「サンデー・テディ」のニックネームはここから来たものである。この日曜日ごとの登板策は功を奏し、ライオンズは38歳から41歳までの4シーズン全てで2桁勝利を挙げ、この4年間の通算で52勝30敗の成績を収めることができたばかりか、1942年には防御率2.10を記録、41歳で最優秀防御率投手にまでなっている。
第二次世界大戦での現役中断を挟んで、1946年には45歳で5試合に登板、同年現役を引退する。通算の勝ち星は260勝だが、当時ヤンキースの監督だったジョー・マッカーシーは、「もしヤンキースで投げていれば400勝以上はできただろう」とライオンズを評していた。引退後ホワイトソックスの監督を勤めるも、1948年に101敗を喫して退任。その後1954年までデトロイト・タイガースやブルックリン・ドジャースなどの投手コーチを歴任した。
1955年に記者投票によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出。1986年にルイジアナ州サルファにて死去。彼の背番号16』は、ホワイトソックスの永久欠番になっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「テッド・ライオンズ」の詳細全文を読む




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