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テトラルキア(, , 英語:tetrarchy, 「4名の支配」の意)は、古代ローマにおける政治体制の一つで、帝政ローマ後期に即位した皇帝ディオクレティアヌスが西暦293年に行ったのが始まりとなる。本来は寡頭制において4名による支配を行う場合を指すが、単に「テトラルキア」と呼ぶ場合はディオクレティアヌスに始まる分担統治を意味する。 軍人皇帝時代に終止符を打ったディオクレティアヌスは、長い内乱によって疲弊し政治的に不安定な中で、広大な領土を支配する必要があった。まず共同皇帝制(これもローマにおける寡頭制の一種である)を利用して帝国領を2分し、その上でそれぞれの副帝(皇帝の補佐官)に互いの領域を更に分与することで帝国領を4分した。 ディオクレティアヌスの死後も、皇帝権の分散という方策は細部を変えながらも後継者であるガレリウス帝へ継承され、コンスタンティヌス1世の即位まで継続されたと考えられている。 == テトラルキアの定義 == 先述のとおり「テトラルキア」という言葉自体は古くからあり、必ずしもディオクレティアヌスやガレリウスの治世を指すとは限らない。それ以前の国家でも、複数の君主が並び立って統治することがあった。例えば、古代イスラエルのヘロデ王が没した後にもテトラルキア制度が採用され、ヘロデ死後の王国に多大な影響を与えた(古代イスラエルのテトラルキア)。プリニウスはテトラルキアという制度を「等しい地位を持つ4つの国」と説明した〔Qtd. and tr. Leadbetter, ''Galerius'', 3.〕。 今日的に理解されるテトラルキアである「ディオクレティアヌスのテトラルキア」と、それ以前におけるテトラルキアは用語として異なる部分がある。古代イスラエルのテトラルキアでは4つの国は全てが独立国として扱われ、各々の太守は同格とされた。対するディオクレティアヌスのテトラルキアではローマ帝国はひとつであり、4人の皇帝はその統治を分担していたに過ぎない。何より、他の皇帝はディオクレティアヌスの下位に置かれていた。つまり、ヘロデ死後の古代イスラエルに比べ、「ディオクレティアヌス帝 > 他の皇帝・副帝」と階層的であり、また集権的な特徴を有していた。 近代の歴史学においても、ディオクレティアヌスの治世を説明するのにテトラルキアという言葉は用いられなかった。ギボンはディオクレティアヌスの支配を「新しい帝国」として変化を表現したが、テトラルキアという単語は使わなかった。テオドール・モムゼンも同様にテトラルキアとは表現しなかった。1887年にシラーが ''Geschichte der Romischen Kaiserzeit'' で初めて “Diokletianische Tetrarchie”(ディオクレティアヌスのテトラルキア)と表現したが、オットー・ゼークによって用語として定着するまでに十数年の月日を要した〔Leadbetter, ''Galerius'', 3-4.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「テトラルキア」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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