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テネシー軍(Army of the Tennessee)は、南北戦争の西部戦線で活動した軍でその名称はテネシー川に基づく。南軍にもテネシー軍(Army of Tennessee)があるが、こちらはテネシー州から名前を取っている。 北軍において「テネシー軍」の呼称が初めて使用されたのは1862年3月である。ユリシーズ・グラント少将隷下の西テネシー小軍管区(District of West Tennessee)の部隊を表すもので、より適切には「西テネシー軍(Army of West Tennessee)」と呼ばれるべきものであった〔Eicher, ''Commands'', pp. 856–57; McPherson, ''Battle Cry'', p. 512.〕。1862年4月、軍は大出血を被ったもののシャイローの戦いを戦い抜いた。続いてテネシー軍はオハイオ軍、ミシシッピ軍と合流し、比較的損害の少なかったコリンスの包囲戦に参戦し、その後テネシーとミシシッピにおける北軍の勢力を維持するために努力した。1862年10月、グラントはそれまでの西テネシー小軍管区からテネシー軍管区(Department of the Tennessee)の司令官に権限が拡大され、彼の指揮下にあるテネシー軍の名称は、その公式な担当区域を一致することとなった〔McPherson, ''Battle Cry'', p. 512; Woodworth, ''Victory'', p. x.〕。グラントはビックスバーグ方面作戦における決定的な勝利まで、テネシー軍を指揮した。1863年7月以降、ウィリアム・シャーマンを始めとする後任の軍司令官に率いられ、テネシー軍はチャタヌーガ方面作戦からノックスビル解放作戦、メリディアンの戦い、アトランタ方面作戦、海への進軍、カロライナ方面作戦を戦い、戦争終了後に解散した。この記事では、グラントが1861年から1862年まで指揮していた、南東ミズーリ小軍管区(District of Southeast Missouri)およびケイロー小軍管区(District of Cairo)にも触れる。これらはベルモントの戦い、ヘンリー砦の戦い・ドネルソン砦の戦いでグラントが率いていた部隊であり、後のテネシー軍の中核となったためである〔Woodworth, ''Victory'', p. x.〕。 2005年の研究によると、テネシー軍は「戦争のターニングポイントとなった重要な戦闘の殆ど、ドネルソン砦、ビックスバーグ、アトランタ、に参加し、決定的な戦域において決定的な勝利を得た」とされている〔Woodworth, ''Victory'', p. ix.〕。1867年、シャーマンはアトランタ方面作戦でのテネシー軍を振り返り、詩的な表現を用いて「追い詰められることもなく、常に勝利とともにあり、素早く行動し、攻撃精神旺盛で、その「鞭の風切り音」の名前にふさわしく、危急に応じて昼夜を問わず、晴れの日も嵐の日も、一方の側面から逆方向に素早く移動した」と評している〔NYT: General Sherman's November 13, 1867 Address to the Society of the Army of the Tennessee ; see Lewis, ''Sherman'', p. 381.〕。 ==歴史== テネシー軍は南北戦争における最も重要な軍であり、北軍の最も賞賛されたな2人の将軍、即ちユリシーズ・グラントとウィリアム・シャーマンに深く関係していたことが、歴史に記憶されている〔Woodworth, ''Victory'', p. ix; Flood, ''Friendship'', pp. 4–6.〕。戦争の間の頻繁な軍事組織の改変と、部隊の名称に関する曖昧さのため、皮肉なことにテネシー軍が正式に編成された日時を特定するのが難しい。但し、テネシー軍の核となる部隊は、グラントがイリノイ州ケイローに司令部をおいていた1861-1862年には形を成していたことを明記しておくべきであろう〔Rawlins, Address, pp. 27–28.〕。これらの部隊は、グラントが西テネシー小軍管区の司令官になった後も、引き続き彼の指揮下にあった。この部隊は「西テネシー軍」と呼ばれることもあったが、こちらの方がより適切な名称であった〔That usage appears, for example, in reports filed by various Union officers after the April 1862 Battle of Shiloh (''Official Records'' (''OR'') I, v. 10/1, pp. 165, 203, 240, 277, 280, 282, 284, 286–87) and can be found as late as October 1862 (Report of Brig. Gen. Thomas A. Davies, October 18, 1862, ''OR'' I, v. 17/1, p. 251). During the period September 28–December 9, 1862, there was also a Confederate Army of West Tennessee, organized from the Confederate Army of the West (1862) and commanded by Maj. Gen. Earl Van Dorn. Confederate authorities ruled that "the name and function of this army improper," and Van Dorn's forces were merged into the Army of Mississippi. See Eicher, ''Commands'', p. 892.〕。しかしながら、陸軍の書簡では、1862年3月から「テネシー軍」の呼称が使用され始めている。この名称はすぐに一般に使用されるようになり、1862年10月にグラントの管轄範囲がテネシー軍管区に拡大されたことで、軍の名称と管轄地域が一致することとなった〔Eicher, ''Commands'', p. 857; see Halleck to Pope, March 21, 1862, ''OR'' I, v. 8, p. 629 ("I am preparing additional re-enforcements for the Army of the Tennessee"); Phisterer, ''Statistical Record'', p. 54 (Grant's forces fought at Shiloh (April 1862) as "the Army of the District of Western Tennessee" and "became the Army of the Tennessee upon the concentration of troops at Pittsburg Landing"); McPherson, ''Battle Cry'', p. 512; Woodworth, ''Victory'', p. x.〕。戦争の期間中、テネシー軍隷下の部隊は数多くの任務をこなし、軍自体も多くの下位部隊が追加されたり他の組織に所属が変更されたりして発展していった。また、隷下の多くの部隊が、ここで触れなかった戦いに参加している。例えば、1863年4月の時点で、ビックスバーグ方面作戦に参加していたのは、グラントの指揮下にあった部隊の半分以下であった〔See Departmental returns for April 30, 1863, ''OR'' I, v. 24/3, p. 249 .〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「テネシー軍」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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