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テリー・ゴーディ : ミニ英和和英辞書
テリー・ゴーディ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

テリー・ゴーディ ( リダイレクト:テリー・ゴディ ) : ウィキペディア日本語版
テリー・ゴディ[ちょうおん]

テリー・ゴディ週刊プロレス誌上では、表記名を「テリー・ゴーディ」としていたが、当時編集長の山本隆司を始めとするスタッフ達は発音の際、皆「テリー・ゴディ」と呼んでいた。実際には「ゴーディ」の方が原音に近い表記である。〕(Terry "Bam Bam" Gordy、本名:Terry Ray Gordy1961年4月23日 - 2001年7月16日)は、アメリカ合衆国プロレスラーテネシー州チャタヌーガ出身。日本では「人間魚雷」の異名を持つ。
甥のリチャード・スリンガー、息子のレイ・ゴディもプロレスラーである。パワーボムの元祖であり、この技を日本に定着させた。
== 来歴 ==
生まれついての巨漢で、ほとんど訓練もしないまま年齢をごまかし14歳でプロレス入りしたとされ、1977年テリー・メッカ(''Terry Mecca'')のリングネームでデビュー。1年後、地元テネシーで出会った2歳年上のマイケル・ヘイズと出会って意気投合し、テリー・ゴディと改名、1978年末よりタッグチームファビュラス・フリーバーズ」を結成する。この名前は彼らが好きだったサザン・ロックのバンド、レーナード・スキナードのヒット曲「フリー・バード」から取ったもので、入場曲も同曲である。なお、これがアメリカマット界で本格的に入場曲が使われるようになったきっかけといわれる。
以降、ヒールのタッグチームとしてテキサス州ダラスを中心に全米で活躍。後にバディ・ロバーツを加えて3人組となり、ダラスの英雄フォン・エリック兄弟(ケビンデビッドケリー)との抗争は凄まじい人気を得た〔。ヘイズとは1981年ジョージアGCWで一時的に仲間割れし、ゴディはジミー・スヌーカを、ヘイズはテッド・デビアストミー・リッチを新パートナーに抗争を展開したこともある。シングルでは、1980年に中南部のMSWAジャンクヤード・ドッグとルイジアナ・ヘビー級王座を、1982年にはアラバマSECWジョー・ルダックNWAサウスイースタン・ヘビー級王座を争った。
1983年8月に全日本プロレスに初来日。日本でのテリー・ファンク引退試合でのザ・ファンクスの対戦相手として、スタン・ハンセンのパートナーに起用された(テリー・ファンクは後に現役復帰)。翌年にはフリーバーズでの来日も実現したが、ゴディのみ全日本の常連となる。デビュー間もない頃に教えを受けたルー・テーズ直伝のパワーボムフィニッシュ・ホールドとして頭角を現す。テリー・ゴディのパワーボムは技を決めた後に、そのままフォールの体勢に持ち込むのが特徴で、それ以降多くの日本のレスラー達が使うようになった。1988年にはスタン・ハンセンとのタッグで世界タッグ王座を獲得。また同年の世界最強タッグ決定リーグ戦を制覇した。1990年3月「殺人医師」ことスティーブ・ウィリアムスとタッグチーム「殺人魚雷」を組み、世界最強タッグ決定リーグ戦を1990年1991年と二連覇する等活躍した。シングルでも1990年6月5日にジャンボ鶴田から三冠ヘビー級王座を奪取している。三冠王者になった外国人選手は、ゴディが初である。この時29歳だったが、20代の三冠王者はゴディと小橋建太の2人だけである。すでに世界タッグ王者でもあったため、外国人レスラー初の五冠王ともなった。また、全日本プロレスに上がる前年の1982年3月1日、ジョージア州アトランタにてジャイアント馬場PWFヘビー級王座に挑戦しており、日本でもその試合が中継された。
1984年8月にはフリーバーズとしてWWFにも出場。シンディ・ローパーとのコラボレーションも実現したが、メンバー個々をシングルプレイヤーとして売り出そうとしたWWFに反発して短期間で離脱〔。その後、フリーバーズはダラスのWCCWを主戦場に、バーン・ガニア主宰のAWAビル・ワット主宰のUWFなどにも参戦。シングルでも1986年5月30日、トーナメントの決勝でジム・ドゥガンを破りUWF世界ヘビー級王座の初代チャンピオンとなった。
1988年のオリジナル・フリーバーズ解散後、ゴディは全日本プロレスを主戦場にスタン・ハンセンやスティーブ・ウィリアムスとのタッグで活動。1992年にはスティーブ・ウィリアムスと共にWCWに参戦、スコット・スタイナー&リック・スタイナースタイナー・ブラザーズと抗争する。WCWは当時新日本プロレスと提携し、スタイナー兄弟も新日本に来日したが、ゴディとウィリアムスは全日本との関係を重視して新日本には参戦しなかった。
1993年8月、全日本のシリーズを欠場。内臓疾患ということになっていたが、実際は一度、全日本参戦中に心停止したことがあり、病院に担ぎ込まれたというのが真相である(以下のエピソード含め、和田京平の著書『人生は3つ数えてちょうどいい』より。医者からは「ご家族を呼んでください」と言われたものの、突然起き上がって「帰る」などと言い出し、周囲の人間が仰天したというエピソードがある)。1年後の1994年7月、サマーアクションシリーズ中盤より全日本マットに復帰したものの全盛期の動きには程遠く、これが最後の全日本への来日となった(スタン・ハンセンの手記によると、ゴディの素行不良のため、全日から解雇を宣告されたらしい)。
その後1995年IWA・JAPANに参戦。画鋲デスマッチ等を行った。1996年には覆面レスラージ・エクスキューショナー(''The Executioner'')としてWWFに登場。マンカインドと怪奇派のタッグチームを結成し、短期間ながらジ・アンダーテイカーと抗争した。1998年にはWARに登場。かつての三冠戦カードである天龍源一郎とのシングル戦が実現した。
。持病の心臓病が悪化し、2001年7月16日テネシー州チャタヌガの自宅で心不全で急死。。
最後の来日は同年2月4日のIWA横浜文化体育館大会。死の直前に、プロレスリング・ノアを発足させた三沢光晴と旧交を温める様子がプロレスマスコミに流れたが、本人がノアに上がることはなく、一時息子のレイ・ゴディがノアに参戦するにとどまった。ジャンボ鶴田が苦手意識を持った数少ないトップレスラーで、1990年代前半にはプロレス四天王の大きな壁として立ちふさがった。
2016年、ファビュラス・フリーバーズのメンバーとして、マイケル・ヘイズ、バディ・ロバーツ、ジミー・ガービンと共にWWE殿堂に迎えられた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「テリー・ゴディ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Terry Gordy 」があります。




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