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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
テリー・テイラー(Terry Taylor、本名:Paul Worden Taylor III、1955年8月12日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー、ブッカー。サウスカロライナ州グリーンビル出身。 ブッカーとしての才能をビンス・マクマホンやダスティ・ローデスに認められ、現役引退後の1995年からはクリエイティブ・スタッフの立場でWWEとWCWを股にかけて活動、マンデー・ナイト・ウォーズが激化していた両団体のバックステージで辣腕を振るった。 2000年代はTNAにてタレント・リレーション部門のディレクターを務め、2013年からはWWEパフォーマンス・センターのトレーナーを担当している〔。 == 来歴 == エディ・グラハムにスカウトされ、1979年にNWAフロリダ地区のCWFにてデビュー〔。ベビーフェイスの新鋭として各地を転戦し、1980年4月25日にアラバマのSECWにてバッドニュース・ハリスからNWAサウスイースタン・ヘビー級王座を奪取。同年8月22日にはジョージアのGCWにてNWAナショナルTV王座の初代王者に認定され、翌1981年1月には中西部のCSWにて、バズ・タイラーからNWAセントラル・ステーツTV王座を奪取している。同年6月7日にはジム・クロケット・プロモーションズのテリトリーだったバージニア州ロアノークにおいて、レス・ソントンを破りNWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得した。 1982年からはAWAの提携団体だったテネシー州メンフィスのCWAに参戦し、8月30日にスティーブ・カーンと組んでスウィート・ブラウン・シュガー&ボビー・イートンからAWA南部タッグ王座を奪取。翌1983年はジャック・ルージョー・ジュニアとAWA南部ヘビー級王座を争い、同年12月1日にはバディ・ランデルを下してCWAミッドアメリカ・ヘビー級王座にも戴冠した。 1984年より、ビル・ワットが主宰するミッドサウス地区のMSWAに定着。金髪の二枚目ベビーフェイスとして女性ファンの支持を集め、6月16日にクラッシャー・クルスチェフからミッドサウスTV王座を奪取。1985年3月13日にはテッド・デビアスを破り、フラッグシップ・タイトルの北米ヘビー級王座を獲得している。1986年にMSWAが団体名をUWFと改称してからもベビーフェイス陣営の主力となって活躍し、同年5月25日にはバズ・ソイヤーからUWF世界TV王座を奪取した。 タッグでは、1986年12月27日にジム・ドゥガンと組んでビル・アーウィン&レロイ・ブラウンからUWF世界タッグ王座を奪取。ドゥガンの離脱でタイトルが空位になると、翌1987年2月7日に行われた新王者チーム決定トーナメントにクリス・アダムスと組んで出場し、決勝で若手時代のスティング&リック・スタイナーを破って王座に返り咲いた〔。8月3日にはシェーン・ダグラスを下して再びUWF世界TV王者となるが、UWFがNWAのジム・クロケット・ジュニアに買収されると、11月26日の『スターケード1987』にてNWA世界TV王者のニキタ・コロフとUWFとNWAの両TV王座統一戦を行い〔、この試合に敗れたことを機に団体を離脱。 その後はテキサス州ダラスのWCWAに登場し、1988年2月26日にマット・ボーンからテキサス・ヘビー級王座を奪取。アイスマン・キング・パーソンズをパートナーに、ケビン&ケリー・フォン・エリックを破ってWCWA世界タッグ王座も獲得した。 1988年7月、テッド・デビアスの仲介でWWFへ移籍。レッド・ルースター(''The Red Rooster'')と名乗ってヒールに転向し、ボビー・ヒーナン率いるヒーナン・ファミリーの一員となり、11月24日の『サバイバー・シリーズ1988』ではハルク・ホーガン&ランディ・サベージのチームと対戦した。翌1989年1月7日の『サタデー・ナイト・メイン・イベント』でヒーナンと仲間割れしてベビーフェイスに戻るが、選手層の厚いWWFではミッドサウス時代のような活躍は果たせず、1990年6月にWWFを退団〔。 WWF離脱後の1990年7月、全日本プロレスに初来日。同年下期よりWCWに参戦し、ヒールとして女性マネージャーのアレキサンドラ・ヨーク率いるヨーク・ファウンデーションに加入する。1992年2月17日にはグレッグ・バレンタインと組んでロン・シモンズ&ビッグ・ジョッシュからWCW USタッグ王座を奪取した。同年8月には新日本プロレスの『G1クライマックス』に来日し、NWA世界ヘビー級王座決定トーナメントに出場している。 帰国後の1992年9月、"テリフィック" テリー・テイラー(''"Terrific" Terry Taylor'')の名でWWFに復帰。ヒールのカラー・コメンテーターも兼任したが、翌1993年8月にWCWに戻り、ベビーフェイスの中堅として1994年まで在籍。その後、シカゴのAWFを経て、1995年に現役をセミリタイアしてブッカーとしてWCWに復帰。エリック・ビショフやケビン・サリバンらと共に、『マンデー・ナイトロ』のシナリオ作成を担当した〔。 以降、ブッカーやライターなどクリエイティブ・スタッフとしてWCWとWWFを行き来し、ライバル関係にあった両団体の番組構成(WCWの『マンデー・ナイトロ』とWWFの『ロウ・イズ・ウォー』)に横断的に携わるようになる〔。1998年から1999年にかけてはアティテュード路線最盛期のWWFに所属していたが、2000年よりシナリオ・ライターのビンス・ルッソーらと共にWCWに復職〔。2001年3月のWCW崩壊後はカナダ・オンタリオ州のボーダー・シティ・レスリングに参画した〔。 2002年9月より『スマックダウン』のロード・エージェントとしてWWEに迎えられたものの、翌2003年7月に解雇〔。以降はTNAを中心に活動し、2004年1月にはIWAジャパンに来日した。 2011年5月20日付でTNAを離れ、WWEに復職。2013年からはNXTのトレーニング施設であるWWEパフォーマンス・センターのトレーナーを務めている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「テリー・テイラー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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