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テルアビブの「白い都市」(ヘブライ語 : העיר הלבנה, ''ha-ʿir ha-levana'')は、1920年代から1950年代にかけて白色や明るい色の建造物群が建てられたテルアビブの街区の名称である。それらの建造物はバウハウス様式あるいはインターナショナル・スタイル〔インターナショナル・スタイルとは、一般的にはドイツ以外において継続したバウハウス様式の延長線上と理解され、多くの場合はこの記事での扱いのようにどちらを使っても差し支えがない。〕が採用されている。 テルアビブの中心地区では、いまだにそうした様式の建物を4000軒以上も見ることができ、これは一都市内に集中しているものとしては世界でも類を見ないものである。このことから、この「白い都市」は20世紀前半の建築や都市計画を考える上で逸することの出来ない優れた例証として、2003年にユネスコの世界遺産に登録された。同時にそれは、この町が育んできた伝統や文化、あるいは取り巻く気候的要件といったものに、建築様式をどう馴化させるかというユニークな例証にもなっている。 ==歴史的背景== テルアビブが建設されたのは、イスラエルの地がまだオスマン帝国領だった1909年のことである。19世紀を通じて大挙して来たユダヤ人の移民たちは、ヤッフォ(ジャッファ)の古い港町に溢れかえっていた。その結果、ユダヤ人たちはヤッフォの北の砂丘地帯に聖書の時代以来となるユダヤ人都市を建て始めたのである。 テルアビブの発展は第一次世界大戦中には停滞したが、東ヨーロッパ、ソビエト連邦、イエメンからの移民が増大していった。ドイツでナチスが権力を掌握した1933年以降、テルアビブにも夥しい数のユダヤ人難民が流入した。そうした難民の中には建設業者や職人、さらには建築家などが含まれており、ことに建築家たちの多くは1933年にナチスの命令で閉校に追いやられたバウハウスで研鑚を積み、その影響を受けていた。 審美的、機能主義的、経済的な側面を併せ持った建築様式を推進していたバウハウスが閉校に追い込まれたことによって、そこで学んだ有能な建築家たちが失業してあぶれていたという状況があった。その一方で、流入する移民たちによってテルアビブでの住居需要は急増しており、確立された建築様式を持たない白紙のキャンバスのような存在であったこの町では、数百軒単位で新しい建物が必要とされていた。こうした状況の組み合わせがまたとない好機を創出する形になった。こうしてバウハウス様式は、テルアビブのデザイナーたちに、過去に頼ることなく新しい環境を創出できる建築的アプローチを提供したのである。 都市計画の枠組みはパトリック・ゲデスによる1925年の基本計画の中に策定されており、そこでは緑地を内包する居住街区に沿って大通りを配置することが定められていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「テルアビブの白い都市」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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