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テルシオ(Tercio)は、1534年から1704年にかけてスペイン王国が採用した軍事編成。あるいはまた、その部隊の戦闘隊形。単に戦闘隊形を指す場合はスペイン方陣(英語:Spanish square)とも呼ぶ。テルシオの編成や戦闘隊形は、17世紀初頭までヨーロッパ各国で盛んに模倣された。 == 歴史 == ===前史=== およそ700年にわたるレコンキスタを完成させたスペイン王国は、イベリア半島の過半を支配下に置き、ヨーロッパの強国の地位を他国と争うようになっていた。1494年、フランスのイタリア半島への侵攻によってイタリア戦争が勃発すると、スペインはアラゴン王国による継承権を理由にこの戦争に介入した。ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバを総司令官として、イタリア半島へ送り込まれたスペイン軍であったが、セミナラの戦いでフランス軍に敗北した。この当時のスペイン軍は、剣と円盾を装備した歩兵と、ヒネーテ(Jinete)と呼ばれる軽騎兵を中心としていた。しかし、この編成では重騎兵とスイス槍兵を中心としたフランス軍に野戦で勝利することはできなかった。 戦後、ゴンサロはイタリアに残ってスペイン軍の軍制改革を進めた。まず、円盾と剣を廃止し、スイス槍兵同様にパイクを持たせた。槍兵には密集隊形(方陣)を組ませ、周囲と両翼に袖のように投射兵(クロスボウ、銃)を配置した。さらにゴンサロは士官の数を増加させた。それまでたった1人の士官が兵士100人から600人を指揮していたが、ゴンサロは兵士300人につき4人から6人の士官が付くようにさせた。これは部隊の柔軟性を高めることにつながった。ひとつの部隊は1000名前後で構成され、指揮官にはコロネル(Coronel、大佐)の階級を与えた。指揮官の階級に由来して、こうした部隊はコロネリア(Coronelía、コロネリャとも)と呼ばれた(ただし)。 1503年、この新式のスペイン軍は、チェリニョーラの戦いでフランス軍を破ることに成功した。チェリニョーラの戦いはまた、火器と野戦築城が効果を発揮した戦いでもあった。それ以降、軍隊の中に占める火器の割合は徐々に増加していった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「テルシオ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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