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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
マリア・テレサ・カレーニョ・ガルシア・デ・セナ(, 1853年12月22日 - 1917年6月12日)はベネズエラの上流階級出身の女性ピアニスト・声楽家・作曲家・指揮者。一般には、テレサ・カレーニョ () として知られている。生前は世界的なピアニストとして、また当時の最も重要なピアニストとして名を残し、しばしば「ピアノの女帝」「ピアノのヴァルキューレ」とあだ名されていた。 == 生涯 == 父マヌエル・アントニオ・カレーニョは、外務大臣や大蔵大臣を歴任したベネズエラの政治家で、素人ながらピアノの才能にも恵まれていた。また、スペイン語圏で広く知られ、たびたび版を重ねたスペイン語の礼儀作法の指南書『お行儀必携』(''Compendio del manual de urbanidad y buenas maneras'') の著者でもあった。母クロリンダ・ガルシア・デ・セナ・イ・トロは音楽家の娘である。父方の祖父ホセ・カイエターノ・カレーニョ(1774年 - 1836年)はベネズエラの作曲界の重鎮であった。 カラカスに生まれたテレサは父からピアノの手ほどきを受けた後、ドイツ系ベネズエラ人ピアニストのフリオ・オエネに師事する。1862年、カレーニョ家はベネズエラ国内の政変のためにアメリカ合衆国に移住し、テレサはニューヨークでルイス・モロー・ゴットシャルクの指導を受ける。同年11月28日、わずか9歳にして、ニューヨーク・アーヴィン・ホールにてデビューを果たす。 1866年にはホワイトハウスでエイブラハム・リンカーンに御前演奏を披露した。同年パリに上陸し、フレデリック・ショパンの高弟ジョルジュ・マティアスと、アントン・ルビンシテインにそれぞれ入門。ヨーロッパ全土で演奏活動に着手し、1876年にはオペラ歌手としてもデビューする。1885年になるまでベネズエラに帰国せず、しかもほんの束の間の滞在に留まったと言われている。1889年にヨーロッパに引き返し、同年11月18日にベルリンにデビュー。この地を拠点にさらに演奏旅行に勤しみ、1890年までの演奏旅行によって名声の頂点を築く。20世紀初頭には、2度の世界的な演奏旅行を行なったが、1917年に体調を崩し、マンハッタン96番街のウェスト・エンド・アベニュー749に位置する住宅「デッラ・ロッビア」に永眠した。 カレーニョは男性遍歴も華麗であり、4回の結婚歴がある。1873年から1875年までヴァイオリン奏者のエミール・ソーレと最初の結婚をして、この間に娘エミリタを儲けている。1876年から1891年まではイタリアのオペラ歌手、ジョヴァンニ・ターリャピエトラと内縁関係にあって2児を儲けた。そのうち娘のテレシータ・ターリャピエトラ=カレーニョは、母親と同じく有名なピアニストになった。カレーニョはカラカスでターリャピエトラと共同でイタリア・オペラを興行し、自らも歌手として舞台に上がった。1892年から1895年まではオイゲン・ダルベールと再々婚し(ダルベール自身、結婚回数の多さで名高い)、さらにオイゲニアとヘルタの2女を儲ける。1902年から没年までは、かつての義弟アルトゥーロ・ターリャピエトラと結婚した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「テレサ・カレーニョ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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