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テレボーウリャ()は、ウクライナ・テルノーピリ州テレヴボーウリャ地区(uk)の行政中心地となっている市(Місто)である。セレト川支流のフニズナ川(uk)に面する〔Теребовля // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона〕 。市の日(uk)は7月7日。 ==歴史== テレボーウリャには新石器時代期に既に人々が住んでいた。史料上の初出は『原初年代記』(イパーチー写本)(ru)の1097年の記述であり、その時点ではテレボヴリと呼ばれていた〔國本哲男『ロシア原初年代記』p278〕。街はハルィチナー地方における最も古い都市の1つである 。また、11世紀末よりテレボヴリ公国の首都となった。 街は1349年にポーランド王国に組み込まれた〔Теребовля // Большая советская энциклопедия 〕。1389年にはマグデブルク法を採用した。14世紀末以降になると、ポーランドの前線の要塞としてテレボーウリャ城が築かれた。ポーランド人とクリミア・タタール人・オスマン・トルコとの戦闘(対タタール:1453年、1498年、1508年、1516年。対トルコ:1675年、1688年。)の中で、城は何度か破壊されている。 1594年、街はポーランドに対し反乱を起こしたウクライナ・コサックのセヴェルィーン・ナルィヴァーイコによって占領された。1648年から1654年にかけてのフメリニツキーの乱では、ポーランドに対するウクライナ側の拠点の1つとなった。また、1672年から1676年にかけてのポーランド・トルコ戦争(ru)の最中の1675年にはオスマン・トルコ軍による包囲(ru)を受けている。 1772年の第一次ポーランド分割からオーストリア=ハンガリー帝国の領土となった(なお1890年の時点で人口は3735人)。1918年 - 1919年には西ウクライナ人民共和国の領域となったが、同国の消滅とともに、1939年まで再びポーランド領、1139年にウクライナ・ソビエト社会主義共和国領となった。なお、旧称のトレンボウリャ(Трембовля / Trębowla)はポーランド語に由来する。この名称は1944年まで用いられていた。 File:Теребовля, Замок 2.JPG|テレボーウリャ城址 File:Siege of Trembowla 1675.PNG|1675年の包囲戦 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「テレボーウリャ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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