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ウィリアム・リチャード・アフィルス(William Richard Afflis、1929年6月27日 - 1991年11月10日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。インディアナ州インディアナポリス出身。 ディック・ザ・ブルーザー(Dick the Bruiser)のリングネームで活躍し、その名の通りの荒っぽいファイトスタイルから、日本では「生傷男」の異名で呼ばれた。 主戦場としていたAWAとの提携のもと、本拠地のインディアナポリスにてWWAを主宰するなど、プロモーターとしても活動した。 == 来歴 == シニアハイスクール時代からアメリカンフットボールで活躍し、インディアナ州ウェストラファイエットのパデュー大学などを経て、1951年にNFLのグリーンベイ・パッカーズに入団した後、1954年にプロレス入り〔。地元のインディアナを含む中西部地区を活動拠点に、1956年1月14日にはウィスコンシン州ミルウォーキーにてルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座に初挑戦した。 ヒールのラフファイターとして殴る蹴るの喧嘩ファイトを押し通し、1957年にはWWWFの前身団体であるキャピトル・レスリング・コーポレーションに参戦。11月19日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてドクター・ジェリー・グラハムと組み、アントニオ・ロッカ&エドワード・カーペンティアと対戦したが、興奮した観客が暴動を起こし、最終的にはニューヨーク州のアスレチック・コミッションから追放処分を受けている(後述)〔『フレッド・ブラッシー自伝』P181-183(2003年、エンターブレイン、ISBN 4757716923)〕。 中西部地区では1957年12月13日、ウイルバー・スナイダーを下してデトロイト版のUSヘビー級王座を獲得。以降、1960年代初頭にかけて、スナイダー、バーン・ガニア、カウボーイ・ボブ・エリス、ボボ・ブラジル、フリッツ・フォン・エリックらを相手にタイトルを争った〔。1963年7月15日にはハワイにてカーティス・イヤウケアを破り、ハワイ版のUSヘビー級王座も奪取している。その後、AWAにて同タイプのクラッシャー・リソワスキーとタッグチームを組み、1963年8月20日にクラッシャーとのコンビでAWA世界タッグ王座を獲得した。 1964年4月22日にはロサンゼルスのワールド・レスリング・アソシエーション(ワールドワイド・レスリング・アソシエーツ)にてフレッド・ブラッシーからWWA世界ヘビー級王座を奪取。同年、自身の団体ワールド・レスリング・アソシエーションをインディアナポリスに設立。ロサンゼルス版WWA王座を獲得した同日に、自らをインディアナポリス版WWAの初代世界ヘビー級王者に認定する。ロサンゼルス版のWWA世界ヘビー級王座は同年7月22日にザ・デストロイヤーに敗れて失ったものの〔、インディアナポリスではベビーフェイスの団体エース兼オーナーとして活躍し、1965年にはジョニー・バレンタインやジン・キニスキーとインディアナポリス版のWWA世界ヘビー級王座を争った〔。 AWAでもベビーフェイスのポジションに回り、1966年11月12日にはネブラスカ州オマハにてマッドドッグ・バションを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得している。クラッシャー・リソワスキーとのタッグでも、ラリー・ヘニング&ハーリー・レイス、クリス・マルコフ&アンジェロ・ポッフォ、マッドドッグ・バション&ブッチャー・バション、ミツ・アラカワ&ドクター・モトなどのチームと抗争を繰り広げ、1968年12月28日にはイリノイ州シカゴにて、当時AWAとWWAの両世界タッグ王者チームだったアラカワ&モトを下し、二冠を手中にした〔。 以降、1970年代全般に渡り、インディアナポリスのWWAおよび提携団体のAWAを股にかけて活躍。WWAではフラッグシップ・タイトルのWWA世界ヘビー級王座を巡り、ザ・シーク、ブラックジャック・ランザ、ブラックジャック・マリガン、バロン・フォン・ラシク、オックス・ベーカー、アーニー・ラッド、ガイ・ミッチェル、イワン・コロフらと抗争を展開。NWAの総本山だったミズーリ州セントルイスのキール・オーディトリアムにも再三出場し、ドリー・ファンク・ジュニア、ハーリー・レイス、ジャック・ブリスコ、テリー・ファンクら歴代のNWA世界ヘビー級王者に挑戦した〔。 WWWFから参戦してきたアンドレ・ザ・ジャイアントやブルーノ・サンマルチノともタッグを組み、1973年7月21日にサンマルチノをパートナーにバロン・フォン・ラシク&アーニー・ラッドからWWA世界タッグ王座を奪取、翌1974年にはバリアント・ブラザーズとタイトルを争った〔。盟友クラッシャー・リソワスキーとのコンビではザ・ブラックジャックスやテキサス・アウトローズなどの強豪チームとの抗争を経て、1975年8月16日にシカゴにてニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスを破り、AWA世界タッグ王座に返り咲いている〔。同年9月20日にはインディアナポリスにてジャック・グレイ&ザリノフ・ルブーフのザ・リージョネアーズからWWA世界タッグ王座も奪取、再び二冠王となり、WWA王座は翌1976年3月13日にオックス・ベーカー&チャック・オコーナー、AWA王座は同年7月23日にブラックジャック・ランザ&ボビー・ダンカンに敗れるまで保持した〔〔。 その後はシングルでの活動に注力し、NWAセントルイス地区では1978年7月14日にディック・マードックからNWAミズーリ・ヘビー級王座を奪取。AWAではニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座に再三挑戦し、本拠地のWWAでは1979年から1980年にかけて、同じく「ブルーザー」をリングネームとしていたキングコング・ブロディとWWA世界ヘビー級王座を賭けた抗争を展開した〔。1982年1月1日には、セントルイス地区のプロモーターだったサム・マソニックの引退興行にてケン・パテラを破り、NWAミズーリ・ヘビー級王座への通算3度目の戴冠を果たしている〔。同年12月18日にはシカゴにて、当時AWAで大ブレイク中だったハルク・ホーガンともタッグを組んだ。 1983年からはセミリタイアの状態となるも、レジェンドとしてAWAのビッグマッチに登場。1984年にはクラッシャー・リソワスキーと久々にコンビを組み、3月4日にシカゴにてニック・ボックウィンクル&スタン・ハンセン、8月19日にはミルウォーキーにてロード・ウォリアーズと対戦。翌1985年はファビュラス・フリーバーズとも度々対戦し、9月28日にシカゴのコミスキー・パークで開催された "AWA SuperClash" ではクラッシャー&バロン・フォン・ラシクと組み、イワン・コロフ、ニキタ・コロフ、クラッシャー・クルスチェフのザ・ラシアンズとの6人タッグマッチに出場した。 同年に現役を引退し〔、プロモーターとしてWWAの運営に専念。グレート・ウォージョことグレッグ・ウォジョコウスキーやスコット・スタイナーなどを輩出したが、ビンス・マクマホン・ジュニア体制下のWWFによる全米侵攻の余波で観客動員が落ち込み、1980年代後半にWWAは活動を停止した。その後はWCWにてタレント・エージェントとなって活動〔。1990年12月16日のスターケードでは、スティング対ブラック・スコーピオンのスチール・ケージ・マッチにてスペシャル・ゲスト・レフェリーを務めた。 1991年11月10日、食道の血管破裂により死去〔。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウィリアム・アフィルス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Dick the Bruiser 」があります。 スポンサード リンク
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