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ディック・ザ・ブルーザー : ミニ英和和英辞書
ディック・ザ・ブルーザー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ブル : [ぶる]
 【名詞】 1. bull 2. (n) bull
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ディック・ザ・ブルーザー ( リダイレクト:ウィリアム・アフィルス ) : ウィキペディア日本語版
ウィリアム・アフィルス[ちょうおん]

ウィリアム・リチャード・アフィルスWilliam Richard Afflis1929年6月27日 - 1991年11月10日)は、アメリカ合衆国プロレスラーインディアナ州インディアナポリス出身。
ディック・ザ・ブルーザーDick the Bruiser)のリングネームで活躍し、その名の通りの荒っぽいファイトスタイルから、日本では「生傷男」の異名で呼ばれた。
主戦場としていたAWAとの提携のもと、本拠地のインディアナポリスにてWWAを主宰するなど、プロモーターとしても活動した。
== 来歴 ==
シニアハイスクール時代からアメリカンフットボールで活躍し、インディアナ州ウェストラファイエットパデュー大学などを経て、1951年NFLグリーンベイ・パッカーズに入団した後、1954年にプロレス入り〔。地元のインディアナを含む中西部地区を活動拠点に、1956年1月14日にはウィスコンシン州ミルウォーキーにてルー・テーズNWA世界ヘビー級王座に初挑戦した。
ヒールラフファイターとして殴る蹴るの喧嘩ファイトを押し通し、1957年にはWWWFの前身団体であるキャピトル・レスリング・コーポレーションに参戦。11月19日にニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにてドクター・ジェリー・グラハムと組み、アントニオ・ロッカ&エドワード・カーペンティアと対戦したが、興奮した観客が暴動を起こし、最終的にはニューヨーク州のアスレチック・コミッションから追放処分を受けている(後述)〔『フレッド・ブラッシー自伝』P181-183(2003年、エンターブレイン、ISBN 4757716923)〕。
中西部地区では1957年12月13日、ウイルバー・スナイダーを下してデトロイト版のUSヘビー級王座を獲得。以降、1960年代初頭にかけて、スナイダー、バーン・ガニアカウボーイ・ボブ・エリスボボ・ブラジルフリッツ・フォン・エリックらを相手にタイトルを争った〔。1963年7月15日にはハワイにてカーティス・イヤウケアを破り、ハワイ版のUSヘビー級王座も奪取している。その後、AWAにて同タイプのクラッシャー・リソワスキータッグチームを組み、1963年8月20日にクラッシャーとのコンビでAWA世界タッグ王座を獲得した。
1964年4月22日にはロサンゼルスワールド・レスリング・アソシエーション(ワールドワイド・レスリング・アソシエーツ)にてフレッド・ブラッシーからWWA世界ヘビー級王座を奪取。同年、自身の団体ワールド・レスリング・アソシエーションをインディアナポリスに設立。ロサンゼルス版WWA王座を獲得した同日に、自らをインディアナポリス版WWAの初代世界ヘビー級王者に認定する。ロサンゼルス版のWWA世界ヘビー級王座は同年7月22日にザ・デストロイヤーに敗れて失ったものの〔、インディアナポリスではベビーフェイスの団体エース兼オーナーとして活躍し、1965年にはジョニー・バレンタインジン・キニスキーとインディアナポリス版のWWA世界ヘビー級王座を争った〔。
AWAでもベビーフェイスのポジションに回り、1966年11月12日にはネブラスカ州オマハにてマッドドッグ・バションを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得している。クラッシャー・リソワスキーとのタッグでも、ラリー・ヘニング&ハーリー・レイスクリス・マルコフ&アンジェロ・ポッフォ、マッドドッグ・バション&ブッチャー・バションミツ・アラカワ&ドクター・モトなどのチームと抗争を繰り広げ、1968年12月28日にはイリノイ州シカゴにて、当時AWAとWWAの両世界タッグ王者チームだったアラカワ&モトを下し、二冠を手中にした〔。
以降、1970年代全般に渡り、インディアナポリスのWWAおよび提携団体のAWAを股にかけて活躍。WWAではフラッグシップ・タイトルのWWA世界ヘビー級王座を巡り、ザ・シークブラックジャック・ランザブラックジャック・マリガンバロン・フォン・ラシクオックス・ベーカーアーニー・ラッドガイ・ミッチェルイワン・コロフらと抗争を展開。NWAの総本山だったミズーリ州セントルイスキール・オーディトリアムにも再三出場し、ドリー・ファンク・ジュニア、ハーリー・レイス、ジャック・ブリスコテリー・ファンクら歴代のNWA世界ヘビー級王者に挑戦した〔。
WWWFから参戦してきたアンドレ・ザ・ジャイアントブルーノ・サンマルチノともタッグを組み、1973年7月21日にサンマルチノをパートナーにバロン・フォン・ラシク&アーニー・ラッドからWWA世界タッグ王座を奪取、翌1974年にはバリアント・ブラザーズとタイトルを争った〔。盟友クラッシャー・リソワスキーとのコンビではザ・ブラックジャックステキサス・アウトローズなどの強豪チームとの抗争を経て、1975年8月16日にシカゴにてニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスを破り、AWA世界タッグ王座に返り咲いている〔。同年9月20日にはインディアナポリスにてジャック・グレイ&ザリノフ・ルブーフのザ・リージョネアーズからWWA世界タッグ王座も奪取、再び二冠王となり、WWA王座は翌1976年3月13日にオックス・ベーカー&チャック・オコーナー、AWA王座は同年7月23日にブラックジャック・ランザ&ボビー・ダンカンに敗れるまで保持した〔〔。
その後はシングルでの活動に注力し、NWAセントルイス地区では1978年7月14日にディック・マードックからNWAミズーリ・ヘビー級王座を奪取。AWAではニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座に再三挑戦し、本拠地のWWAでは1979年から1980年にかけて、同じく「ブルーザー」をリングネームとしていたキングコング・ブロディとWWA世界ヘビー級王座を賭けた抗争を展開した〔。1982年1月1日には、セントルイス地区のプロモーターだったサム・マソニックの引退興行にてケン・パテラを破り、NWAミズーリ・ヘビー級王座への通算3度目の戴冠を果たしている〔。同年12月18日にはシカゴにて、当時AWAで大ブレイク中だったハルク・ホーガンともタッグを組んだ。
1983年からはセミリタイアの状態となるも、レジェンドとしてAWAのビッグマッチに登場。1984年にはクラッシャー・リソワスキーと久々にコンビを組み、3月4日にシカゴにてニック・ボックウィンクル&スタン・ハンセン、8月19日にはミルウォーキーにてロード・ウォリアーズと対戦。翌1985年ファビュラス・フリーバーズとも度々対戦し、9月28日にシカゴのコミスキー・パークで開催された "AWA SuperClash" ではクラッシャー&バロン・フォン・ラシクと組み、イワン・コロフ、ニキタ・コロフクラッシャー・クルスチェフザ・ラシアンズとの6人タッグマッチに出場した。
同年に現役を引退し〔、プロモーターとしてWWAの運営に専念。グレート・ウォージョことグレッグ・ウォジョコウスキーやスコット・スタイナーなどを輩出したが、ビンス・マクマホン・ジュニア体制下のWWFによる全米侵攻の余波で観客動員が落ち込み、1980年代後半にWWAは活動を停止した。その後はWCWにてタレント・エージェントとなって活動〔。1990年12月16日のスターケードでは、スティングブラック・スコーピオンスチール・ケージ・マッチにてスペシャル・ゲスト・レフェリーを務めた。
1991年11月10日食道の血管破裂により死去〔。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ウィリアム・アフィルス」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Dick the Bruiser 」があります。




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