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ディック・マードック(Dick Murdoch、本名:Hoyt Richard Murdoch、1946年8月16日 - 1996年6月15日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。テキサス州ワクサハチー出身。 == 来歴 == 父のフランキー・マードックもプロレスラーだったことから、幼少期からレスリングの英才教育を受け1965年テキサス州アマリロの「ファンク道場」に入門しプロレス入り。そのほかにもウエスト・テキサス州立大学でアメリカンフットボールの選手として活動したとされているが、実際には大学には入学しておらず、勝手に出入りしていたらしい。また、ボクシングの心得もあったとされ、そのキャリアはアメリカ海兵隊時代に身につけたものといわれている。ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクとは幼なじみである。 キャリア開始直後はドン・カーソンの弟と称しカーソン・ブラザースでデビュー、その後キラー・カール・コックスとタッグを組み、垂直落下式ブレーンバスターを伝授されている。 1968年2月に日本プロレスに初来日。同年10月にダスティ・ローデスとタッグチーム「テキサス・アウトローズ」を結成し、全米各地区を転戦し活躍した。また、1971年の来日の際には、12月4日には宮城県スポーツセンターにおいてアントニオ猪木の持つUNヘビー級王座に挑戦している。また、1972年の「第14回ワールド・リーグ戦」にも来日している。 1971年7月、「チェーン・デスマッチの鬼」グレート・ボリス・マレンコとチェーン・デスマッチを行ったことがある。この試合でマードックは豪快な勝ちを収め、怖いもの知らずのアウトロー振りを発揮した。 1973年6月、国際プロレスにテキサス・アウトローズとして初参戦。シングルでは6月29日に半田にてストロング小林のIWA世界ヘビー級王座に挑戦し、テキサス・アウトローズでは6月30日に岐阜市民センターにてラッシャー木村&グレート草津のIWA世界タッグ王座に挑戦した〔『忘れじの国際プロレス』P101(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583620802)〕。7月4日には富山市体育館にて、小林との金網デスマッチも行われている。 1973年10月には全日本プロレスにも参戦した。全日本ではローデスと組んでジャイアント馬場・ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦(1975年)したほか、1980年には鶴田を破りUNヘビー級王座を獲得。オープン選手権でのパット・オコーナー戦、ホースト・ホフマン戦。コックスとのブレーンバスター対決、ビル・ロビンソン戦(1976年12月)。ハーリー・レイスとのNWA世界選手権(1979年5月)。キラー・トーア・カマタ(1980年3月)との凄惨な流血戦など、名勝負も多く残している。また、覆面レスラー「ザ・トルネード」に変身してのザ・デストロイヤー戦(1974年)覆面十番勝負などもある。1974年11月5日に馬場のPWFヘビー級王座に挑戦した際には回転エビ固めで敗れている。なお、覆面が結構気に入ったのか持ち前の茶目っ気故か、新日本時代にはアンドレ・ザ・ジャイアントがジャイアント・マシーンになったのを見て「俺もマシン軍団に混ぜてくれ」と言っていたという。 1981年に新日本プロレスに移籍。以降も常連レスラーとなり、猪木や藤波辰巳らと激闘を展開した。新日本時代はタッグでの活躍が目立ち、スタン・ハンセン、アドリアン・アドニス、マスクド・スーパースターらとのチームでは日本勢を大いに苦しめた。シングルでは1986年には猪木とIWGP優勝戦を争っている。また、当時は幻とされていたローデスとのアウトローズも復活させファンの喝采を浴びている。 1984年にWWF入りし、アドニスとのタッグチーム「ノース・サウス・コネクション」で活動、同年4月17日にロッキー・ジョンソン&トニー・アトラスを破りWWF世界タッグ王座を獲得した。 1989年にFMWに参戦し、以降1990年代の日本での活動はインディー団体を中心に転戦した。アメリカではWCWでディック・スレーターとブルーカラー・ギミックの「ハード・ライナーズ」を結成した。 晩年はテキサスのプロレス復興に取り組んでいたが、その矢先の1996年6月15日に心臓麻痺により急死。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ディック・マードック」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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