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ディノ・ブラボー : ミニ英和和英辞書
ディノ・ブラボー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ブラボー : [ぶらぼー]
 【名詞】 1. bravo 2. (n) bravo
ラボ : [らぼ]
 【名詞】 1. (abbr) laboratory 2. language laboratory 3. (P), (n) (abbr) laboratory/language laboratory
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ディノ・ブラボー : ウィキペディア日本語版
ディノ・ブラボー[ちょうおん]

ディノ・ブラボーDino Bravo、本名:Adolfo Bresciano1948年8月6日 - 1993年3月11日〔)は、イタリアモリーゼ州カンポバッソ出身のプロレスラー
移住先のカナダWWFを主戦場に、怪力自慢のパワーファイターとして活躍した。なお、彼以前にも "Dino Bravo" と名乗るイタリア人プロレスラーが1960年代に活動しており(本名:Pepe DiPasquali)、このリングネームにおいては2代目となる。
== 来歴 ==
幼少時に家族と共にカナダ・ケベック州モントリオールに移住。学生時代にレスリングボディビルで体を鍛え、1970年にデビュー〔『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P55(2002年、日本スポーツ出版社)〕。モントリオールを中心に正統派のパワーファイターとしてキャリアを積み、マッドドッグ・バションが主宰していたグランプリ・レスリングでは、1972年11月20日にジノ・ブリットと組んでキラー・コワルスキー&ジル・ポワソンからGPWタッグ王座を奪取。アメリカ本土では1974年よりロサンゼルスNWAハリウッド・レスリングで活動、エドワード・カーペンティアビクター・リベラのパートナーとなり、ジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツハリウッド・ブロンズと抗争した。
1976年より、ジム・クロケット・ジュニアの運営するノースカロライナNWAミッドアトランティック地区に参戦。ミスター・レスリングことティム・ウッズとタッグを組み、5月5日にジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソンミネソタ・レッキング・クルーから同地区認定のNWA世界タッグ王座を奪取した。ウッズとのコンビでは、同年11月3日のトーナメント決勝でミシェル・デュボア&レネ・グレイを下しミッドアトランティック・タッグ王座にも戴冠している。シングルでは怪力を活かし、ブラックジャック・マリガンマスクド・スーパースターなど大型のヒールと抗争を展開した。
並行してニューヨークWWWFにも進出し、ドミニク・デヌーチとイタリア人同士のタッグチームを結成。1978年3月14日にプロフェッサー・タナカ&ミスター・フジからWWWF世界タッグ王座を奪取している。同年12月17日にはカナダのトロントジン・キニスキーを破りNWAカナディアン・ヘビー級王座の初代チャンピオンとなり、カナダの伝説的レスラー、ホイッパー・ビリー・ワトソンよりベルトを授与された。1980年からはAWAをサーキットし、ニック・ボックウィンクルAWA世界ヘビー級王座にも挑戦している。
1981年10月、新日本プロレスの『闘魂シリーズ』に初来日〔。開幕戦における長州力と組んでのスタン・ハンセン&ハルク・ホーガンとのタッグマッチ、そして最終戦でのアブドーラ・ザ・ブッチャーとのシングルマッチでは、共に相手がヒールの外国人選手だったこともあって、ベビーフェイスとしての持ち味をフルに発揮した好ファイトを展開。ホーガンやブッチャーの巨体を抱え上げアトミック・ドロップを放つなどの怪力ぶりも喝采を浴び、将来の外国人エース候補と期待された。しかし、再来日となる翌1982年11月の『第3回MSGタッグ・リーグ戦』ではヒールのアドリアン・アドニスと組まされたため、本領を発揮することができなかった。1983年5月には北米代表としてIWGPリーグ戦第1回大会に来日したが、家族の不幸のため試合を行うことなく緊急帰国している。
その間、本国ではモントリオール地区のインターナショナル・レスリング(Lutte Internationale)を主戦場に、プロモーター兼任のエース選手として活動〔。フラッグシップ・タイトルのカナディアン・インターナショナル・ヘビー級王座をビル・ロビンソンリック・マーテルアレックス・スミルノフセーラー・ホワイトキング・トンガらと争い、1985年まで計6回に渡って同王座を獲得した。1985年にはモントリオール地区への進出を図っていたWWFより、WWFカナディアン・チャンピオンに認定される〔。1986年、WWFのプロモートによりモントリオールでのハルク・ホーガンとのシングルマッチが予定されていたが、同地におけるブラボーの人気にホーガンがヒール扱いされてしまうことを危惧したWWF側の判断で、直前にマッチメイクが変更されるという事態も起こった〔。
1987年、WWFと再契約。ブルータス・ビーフケーキと仲間割れしたグレッグ・バレンタインの新パートナーとなり、イタリア人でありながら髪をブロンドに染め、フレンチ・カナディアンとしてのアイデンティティを強調したヒールに変身する。1988年にはカナディアン・ストロンゲスト・マンを名乗り、フレンチ・マーチンマネージャージム・ドゥガンとアメリカ対カナダの抗争を開始。1989年からはジミー・ハートを新マネージャーに迎え、アースクエイクとのカナディアン・コンビでハルク・ホーガンやアルティメット・ウォリアービッグ・ボスマンタグボートらと抗争した。
1992年にWWFを離れて引退。その後は若手レスラーの指導にも携わっていたが、1993年3月11日、違法タバコの密輸に絡むトラブルのため、モントリオールの自宅で犯罪組織に射殺された〔〔〔〔。〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ディノ・ブラボー」の詳細全文を読む




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