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テオドリック(Theodoric, 454年 - 526年8月30日、在位 : 493年 - 526年)またはテオデリック(Theoderic, Theoderik)は、東ゴート王国の創始者。ラテン語ではテオドリクス (Theodoricus)。しばしばテオドリック大王と呼ばれる。イタリア語ではテオドーリコ (Teodorico)。 == 生涯 == 東ゴート族の王子ティウディミルの子として454年に生まれ、東ローマ帝国の人質として、少年期をコンスタンティノポリスの宮廷で過ごした。470年、ティウディミルが王位に就くと帰郷したが、マケドニアのテッサロニキを占領した後、父王が死んだので、王位を継承した。 東ゴート族の主導権を巡って、ローマ軍の長官テオドリック・ストラボと争い、皇帝ゼノンとの政治的駆け引きを繰り返したが、テオドリック・ストラボが急死したため、東ローマ帝国に圧力をかけ、483年には東ローマ帝国の軍事長官に任命された。 彼の東ゴート王国創設は、西ローマ帝国のパトリキウスに任命された親衛隊長オドアケルが、東ローマに内政干渉を行ったことに端を発する。皇帝ゼノンは、テオドリックにイタリア遠征と、皇帝代理としてこれを支配することを確約した(これは、東ローマ帝国内に居座る東ゴート人を厄介払いしてしまおうと言うゼノンの思惑があった)ので、488年、彼はモエシアを経ち、489年、リュブリャナ平原のイゾンツォ川でオドアケルの軍勢を破ると(イゾンツォの戦い)、ヴェローナ、ミラノを占領、西ゴートの援軍を得てラヴェンナを包囲した。493年、彼は、和平交渉によりラヴェンナ入城を果たし、イタリア王を名乗った。 テオドリックは、隣国との調停を計るため、フランク王国の王クローヴィスの妹アウドフレダを妻に迎え、娘を西ゴート王国のアラリック2世に、妹をヴァンダル王トラスムンドに嫁がせた。 彼を、そして東ゴート王国を最も悩ませたのは、宗教問題と後継者問題であった。テオドリックと、多くのゴート族はアリウス派であったが、カトリック教徒であった皇帝ユスティヌス1世(ローマ法大全を編纂させたユスティニアヌス大帝の、叔父にして先代皇帝)はこれを迫害し、東ローマとの関係は次第に悪化した。また、彼自身は当時としては長寿であったが、テオドリックには後継者となる男子に恵まれず、東ゴート王国にとってはこれが最も致命的となった。 彼は526年に死に、その霊廟は現在でもラヴェンナで見ることができる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「テオドリック (東ゴート王)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Theoderic the Great 」があります。 スポンサード リンク
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