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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
フレデリック・シーオドア・アルバート・ディーリアス(Frederick Theodore Albert Delius CH 1862年1月29日 - 1934年6月10日)は、イギリスの作曲家。本名はフリッツ・シーオドア・アルバート・ディーリアス(Fritz-)である。かつて日本語では「デリアス」と表記されることが多かったが、三浦淳史の解説などを通して、より原音に近い「ディーリアス」が一般的となった。 イングランド北部の裕福な商人の家庭の生まれであったが、ディーリアスは商売の道に進みたがらなかった。1884年にはオレンジのプランテーションを運営するためにアメリカのフロリダ州に送られるものの、仕事を放棄した彼は黒人音楽に感化されて作曲を行うようになる。1886年からしばらくはドイツで正式な音楽教育を受け、パリに移って職業作曲家としてのキャリアを開始した。その後、遠く離れないグレ=シュル=ロワンに居を構え、その地で妻のイェルカ・ローゼンと共に大戦時を除く生涯を過ごした。 ディーリアスが最初に成功を手にしたドイツでは、1890年代終盤からハンス・ハイムをはじめとする指揮者が彼の作品を紹介していた。祖国のイギリスにおいては、トーマス・ビーチャムが作品を取り上げた1907年より、彼の音楽は演奏会のプログラムの常連となった。ビーチャムの貢献は1909年のロンドンにおける「人生のミサ」の前全曲初演(彼は1908年にドイツで第2部の初演も行っている)、1910年のロイヤル・オペラ・ハウスにおけるオペラ「」の上演、1929年の6日間にわたるディーリアス音楽祭の開催、また多くのディーリアス作品の蓄音機録音などがある。ディーリアスはパリ時代の初期に梅毒に感染し、1918年からはこの病に苦しめられることになる。彼は身体が麻痺すると共に視力を失ったが、代筆者のエリック・フェンビーの助けを借りて1928年から1932年の後期作品の作曲を行った。 ディーリアスの初期作品に見られる叙情性には、彼がアメリカで耳にした音楽と、リヒャルト・ワーグナーや彼と親交があったエドヴァルド・グリーグなどのヨーロッパの作曲家の影響が見られる。その後、彼は自らの技法を確立していき、オーケストレーションや半音階的和声法に特徴付けられる独自の様式を築き上げるに至った。ディーリアスの音楽の人気には上がり下がりがあり、しばしば批判の的にもなっている。1962年に彼の熱心な支持者らが設立したディーリアス協会は、ディーリアスの生涯と作品に関する周知活動を続けており、毎年若手音楽家に授与されるディーリアス賞のスポンサーにもなっている。 == 生涯 == === 幼少期 === ディーリアスは、ロンドンの北北西約250kmに位置するヨークシャーのブラッドフォードに生まれた。洗礼名はフリッツ・シーオドア・アルバート・ディーリアスで〔 〕、彼は40歳になる頃まで使用していた〔。両親はユリウス・デリウス(Julius Delius; 1822年-1901年)とエリーゼ・パウリーネ(Elise Pauline 旧姓クレーニッヒ Krönig; 1838年-1929年)で、フレデリックは4男10女の兄妹の次男、4番目であった〔 〕。彼の両親の生まれはドイツ、ヴェストファーレンのビーレフェルトで、オランダ系の血筋であったが、ドイツ国内のライン川の近くの土地に定着して数世代を経ていた。ユリウスの父のエルンスト・フリードリヒ・デリウス(Ernst Friedrich-)は、ナポレオン戦争時にブリュッヘル元帥の指揮下で従軍していた。ユリウスがイングランドに移り住んだのは羊毛商人として一旗上げるためであり、1850年に帰化してイギリス国籍を取得していた。エリーゼとの結婚は1856年のことである〔 〕。 ディーリアス家は音楽一家であり、当時の有名な音楽家であるヨーゼフ・ヨアヒムやカルロ・アルフレード・ピアッティなどが来客として訪れ、演奏を披露したこともあった〔。ドイツの家系に生まれながらも、幼いディーリアスはドイツ=オーストリア系のモーツァルトやベートーヴェンではなく、ショパンやグリーグらの音楽により強く惹かれており、この好みは生涯にわたって続くこととなった〔。ディーリアスが受けた最初の音楽教育は、ハレ管弦楽団のバウアーケラー(Bauerkeller)によるヴァイオリンの指導であり、その後リーズのジョージ・ハドック(George Haddock)の下でさらに発展的な教育を施された。彼は後年ヴァイオリンの教師として仕事が出来るほどにヴァイオリンの腕を上げていたが、最も楽しみを見出していたのはピアノに向かって即興演奏をすることであり、彼が初めて音楽で我を忘れる体験をしたのはショパンのワルツであった〔。1874年から1878年にかけて、ディーリアスは〔訳注:1548年設立、男女共学のインデペンデント・スクール(Independent school)。〕で学んでおり、やや年長の学生にはテノール歌手のがいた〔Beecham (1975), p. 18〕。その後、彼は1878年から1880年の間にアイザルワース〔訳注:ロンドン西部、ハウンズロー・ロンドン特別区の小さな町。この町で製作されたレオナルド・ダ・ヴィンチの作品が、国内では「アイルワースのモナ・リザ」として知られるが、発音はアイザルワース()。〕のインターナショナル・カレッジで学んだ。学生としてのディーリアスは利口でも勤勉でもなく〔、カレッジがロンドンにほどよく近かったためにコンサートやオペラに足を運んでいた〔 〕。 父のユリウスはフレデリックが家業の羊毛業でひとかどの活躍ができるものと考え、続く3年間は彼に仕事をさせようと必死の説得を試みた。ディーリアスの最初の仕事はグロスタシャー、にある商社の代表で、ここで彼はほどよく仕事をこなした。同じくケムニッツの会社の代表として送られてからの彼は職務を放棄して、音楽の中心であったドイツに向かってハンス・ジットの下で音楽を学ぶことを選んでしまう〔。そこで父は彼をスウェーデンへと向かわせるが、ここでも彼は商売より芸術に興味を向け、ノルウェーの劇作家であるヘンリック・イプセンやグンナー・ヘイベルグ〔訳注:1857年生まれ、ノルウェーの詩人、劇作家。(Gunnar Heiberg)〕の影響を受けることになる。因習的な価値観に反旗を翻したイプセンに感化され、ディーリアスはますます商売の道とは疎遠になっていった〔。次に彼が送られたのはフランスの会社であったが、彼は頻繁に仕事を休んではコート・ダジュールへ出かけていた〔。ここまでくると、父のユリウスも息子が一家の家業を継ぐ見込みはないことを悟ったが、それでも彼は息子を音楽の道に進ませることには反対の立場であった。彼は代わりにオレンジのプランテーションを運営させるべく、息子をアメリカへと送り出したのである〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フレデリック・ディーリアス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Frederick Delius 」があります。 スポンサード リンク
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