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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ディーロ・ブラウン(D'Lo Brown、1970年10月22日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ニュージャージー州出身のアフリカ系アメリカ人。ディー・ロウ・ブラウンと表記される時もある。 本名はエイシー・コナー(Accie Connor)、通称エース・コナー(Ace Connor)。WWE、TNA、全日本プロレス、プロレスリング・ノアなどで活躍。 == 来歴 == ラリー・シャープのモンスター・ファクトリーとアル・スノーの道場でトレーニングを行い、地元ニュージャージー州の団体でプロレスラーとしてデビュー。1993年にはWWF(現・WWE)にジョバーとして参戦。しばらくインディペンデント団体で活動した後、1995年にWWE下部組織のHWAに入る。 1997年、ディーロ・ブラウンのリングネームでWWE登場。ファルークやザ・ロックらのネーション・オブ・ドミネーションのメンバーとなり、解散後もマーク・ヘンリーやザ・ゴッドファーザーとのタッグで活動した。1998年7月にはトリプルHを破りヨーロピアン王座を獲得し、1999年にはジェフ・ジャレットからインターコンチネンタル王座も奪取している。また、1999年10月に、ドロズをパワーボムで下半身不随の再起不能にしてしまうという苦い経験もあった。 2000年にチャズとロー・ダウンなるチームを結成もトップ戦線には食い込めず、その後タイガー・アリ・シンをマネージャーにイスラム教徒ギミックのチームとなるが、それも前座扱いばかりの試合であった。2003年2月にWWEを解雇される。 退団後の2003年10月にTAKAみちのくに呼び寄せられ、全日本マットに登場した。TAKAみちのくからの勧誘とあって、TAKAが率いるチーム「RO&D」の一員として活躍。当初はTNAと掛け持ちで出場している。 2006年1月よりヨーロッパに遠征していたが、2006年9月シリーズで久々に来日。些細なトラブルで不仲になっていた太陽ケアとも、一騎打ちの末和解することができた。しかし、9月17日にRO&D対VOODOO-MURDERS“敗者チーム解散マッチ”を行った際、試合中にブキャナンと共にRO&Dを裏切りVOODOO-MURDERSに加入。しかしVOODOO-MURDERSではあまり出番が無く、2007年4月に再びTAKAみちのくに合流、ノアに参戦すると発表された。6月にブキャナンと組んでGHCタッグ王座に挑戦するも敗戦。10月に空位となった同王座決定リーグ戦に参戦。優勝し、同王座を獲得した。 現地時間8月13日に開催されたWWEのRAWのダーク・マッチに出場し、勝利を収めた。その際に、プロレスLOVEのようなポーズを見せた。観客の反応も上々で、WWEへの再契約の話も報じられた。 それ以降もノアなどに参戦、2008年3月・4月にノアにおいて行われたグローバル・タッグ・リーグ戦にブキャナンとのコンビで出場(9チーム中5位、技能賞)するなどしていたためWWE復帰は無いのかと思われていたが、同年6月に正式にWWEと再契約。数々のダーク・マッチをこなし、7月21日にRAWにてサンティーノ・マレラにローダウンを決めTV復帰を勝利で飾った。しかし2009年1月9日に大きなチャンスを与えられないまま大型解雇(バル・ビーナス、バン・ニーリー、ケビン・ソーン、レフェリーら)の中の一人となり、再びWWEを去った。 WWE解雇後は、初戦からROH世界ヘビー級王座に挑戦という破格の扱いで2009年2月よりROHに参戦。4月にはノアにも復帰した。9月からはロード・エージェントとしてTNAと再契約。2012年からは大型ユニットであるエイシズ・アンド・エイツのメンバーとして再びリングに上がり、2013年5月にカート・アングルとアイ・クイット・マッチ を行うが敗退。エイシズ・アンド・エイツから追放され、7月にTNAを解雇された。 その後、2013年8月に全日本プロレスに再参戦。9月には王道トーナメントに出場し、11月からはバンビキラーやKENSOと共にヒールのユニットを結成した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ディーロ・ブラウン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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