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ディーン・マーチン : ミニ英和和英辞書
ディーン・マーチン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ディーン・マーチン ( リダイレクト:ディーン・マーティン ) : ウィキペディア日本語版
ディーン・マーティン[ちょうおん]

ディーン・マーティンDean Martin1917年6月7日 ステューベンヴィル - 1995年12月25日 ビヴァリーヒルズ)は、アメリカ合衆国俳優である。ジェリー・ルイスとのコメディ・チーム「底抜けコンビ」で知られる。アメリカではディノ(Dino)の愛称で親しまれている。
== 来歴 ==

1917年6月7日、アメリカ・オハイオ州の東部、ピッツバーグに程近い小都市ステューベンヴィルで生まれる。イタリア系のアメリカ人で、出生時の名前はDino Paul Crocettiである。イタリア系移民の子であったので幼少のときは英語が話せずイタリア語を話していた。
高校を中退し、ヤミ酒場(禁酒法時代1920〜1933当時:ディノ15歳の時)で密造酒などの運び役などをしながら棍棒セールスマンとして製鉄所に勤めていた(←製鉄所に警備棒を持ってガードマンとして勤務していた)。さらに少年時代から酒場に出入りしていたことから15歳よりウェルター級ボクサーとして懸賞試合でボクシングをしていた。その時のリングネームは『キッド・クロセッティ』である。そのボクシングの試合で鼻を負傷しボクサーを引退する。
その後、バーの用心棒や違法ルーレットカジノのディーラーや元締めなどをして勤めていた。ショウ・ビジネスへの活動の始まりとしては、1940年代初頭にクラブまわりをしていたサミー・アトキンス率いるバンドと知り合い専属歌手となる。当初の歌い出としては当時の流行歌手ビング・クロスビーミルス・ブラザーズの歌唱スタイルを真似たものであった。その時に名前を本名ディノ・クロセッティ(Dino Crocetti)から最初の名前ディノ・マルティーニ(Dino Martini)と変えている。その後バンド活動中にサミー・アトキンスからイタリア風の名前から英語風のものに変えることをすすめられ名前をディーン・マーティンと改名する。
そしてクラブ歌手として活動中の1946年、アトランティック・シティのクラブで解雇寸前の窮地に立たされた時、偶然ナイトクラブで歌っていたニューヨークで出会った9歳下の無名コメディアンジェリー・ルイスと即興でコンビ(Martin and Lewis日本での名称は「底抜けコンビ」)を組み人気が沸騰、それがハル・B・ウォリスの目に止まりコンビで映画「底抜けシリーズ」(パラマウント映画、1949年 - 1956年)に出演して、世界的スターになった。1952年にはおなじパラマウント社の人気シリーズ「珍道中シリーズ」(主演ビング・クロスビーボブ・ホープドロシー・ラムーア)にも、同コンビでゲストで乱入している(『バリ島珍道中』(''Road to Bali''、監督ハル・ウォーカー)。
マーティン&ルイスコンビ主演映画はパラマウントのドル箱シリーズになったが、成功の手柄はルイスの独り勝ち等の揶揄があり、マーティンは歌手としてミリオンヒットを何枚か出したにも関わらず俳優としての評価は低かった。尚コンビ解消の理由は正式に発表されていないが2人には1,956年に7本追加契約があり、内2本を消化しただけだけであり、その後ルイスはパラマウント&製作者ハル・B・ウォリスとの契約を継続したから世論は自己都合退社したマーティンには余計に不利に働いた。
マーティン語録①;誰の人生にも二つの曲がり角がある、私の人生で一つ目はジェリー・ルイスと出逢った事、二つ目はジェリーと別れた事だ。
1956年にコンビを解消してからは、シナトラ一家、いわゆるラット・パック の主要メンバーとして、フランク・シナトラサミー・デイヴィス・ジュニアピーター・ローフォードジョーイ・ビショップとともに活動した。映画では主に西部劇(多くはセカンドロールで本領発揮する小悪党キャラ)、自身の歌もまじえたロマンチック・コメディーなど娯楽映画を中心に多数出演し、1950年代〜60年代を代表するマネーメーキングスターの地位を築いた。主な代表作にエドワード・ドミトリク監督の『若き獅子たち』(1958年)、ハワード・ホークス監督の『リオ・ブラボー』(1959年)、ヴィンセント・ミネリ監督の『走り来る人々』(1958年)、『ベルは鳴っている』(1960年)、ビリー・ワイルダー監督の『ねえ!キスしてよ』(1964年)などがある。そして1966年からはドナルド・ハミルトンDonald Hamilton)原作のスパイ小説を基にした映画『サイレンサー』シリーズの全4作に主演、原作のハードボイルドでシリアスな展開とは違いプレイボーイでユーモア溢れるスパイ=マット・ヘルムを演じ、1960年代スパイ映画ブームに乗り同時期に人気絶頂だった『007』シリーズの亜流作品としても話題となった。
そして1969年にはアメリカンニューシネマに逆行するグランド・ホテル・スタイルのオールスター・キャスト70mm『大空港』(一般公開は1970年)の副操縦士(月一度、同僚機長の癖を監督する機長)役など演技派としても知られた。
マーティン語録②;ニューヨークは嫌いだ、あそこはエレベーターしかない、俺はエレベーターを信用しない、ついでにテレビジョンもロケットも嫌いだ、君らは月へ行く奴等を信用できるかい?俺は嫌だね!
(ニューヨーク大停電とアポロ宇宙計画を皮肉った独特の表現だが、後に『ローハイド』にゲスト出演したり冠番組を通産20年も持ったのは自分を高く売り込む駆け引き)
歌手としても有名で、レコーディングキャリアの本格的な始まりは1948年マーティン&ルイスとして『底抜け』(※)シリーズ(パラマウント映画)の主題歌(''The Certain Party'') をキャピトル・レーベルで吹き込んだのを皮切りに、同年キャピトル・レコードと契約し1961年まで在籍、その後フランク・シナトラがリプリーズ・レコードを設立するにともない彼の誘いで1962年にリプリーズに移籍し1980年までにスイング、ラテン、カントリー、R&B、ポップスなどあらゆるジャンルの曲を歌いこなし、多数のアルバム、シングルを残している。主な代表曲に『誰かが誰かを愛してる』 (''Everybody Loves Somebody'')、『ザッツ・アモーレ』(''That's Amore'')、『イナモラータ』(''Innamorata)''、『ヴォラーレ』(''Volare'')、『思い出はかくのごとし』 (''Memories Are Made of This'')、『キング・オブ・ザ・ロード』 (''King of the Road''、グラミー賞受賞曲)などのヒット曲がある。NBCのテレビ番組『ディーン・マーティン・ショー』(''The Dean Martin Show''、1965〜1974)及び:en: The Dean Martin Celebrity Roast(1974〜1984)のホストとしても活躍した。またラスベガスでのショーやステージ活動も1987年まで精力的に行っていた。
マーティン語録③;何の才能もない人に必要なもの、それは努力、忍耐、自制心!
だが、全く努力していない気楽に歌い気楽に演じているイメージを守り抜いた結果しばし一流の監督や音楽家ですら欺いていた。
_ハワード・ホークス;彼は男優としてもっと成功しても良かった、ジャック・L・ワーナーがロケ地に来て‘我々はディーンと契約した筈だが彼はどこだ?、えっあのヨレヨレが!’と吃驚したからだ、だが人生をフラフラしている奴でもある、彼は追い詰められなければ自分のショーのリハーサルすらしない、早く切り上げてゴルフに行きたいのだ。
_ネルソン・リドル;ディーンは歌が巧いのに本人が全くそれに気付いていない、彼は自分の人生を真剣に考えないのです、まして周囲が自分をどう評価しているかなど全く考えていません。
因みに演技賞ノミネートは1959年「奥様ごめんなさい」ゴールデングローブ賞(ベストアクター)のみ
私生活では、最初の妻ベティ・マクドナルドとの間に4人(1男3女)、2番目の妻ジーン・ビーガーとの間に3人(2男1女)の子供をもうけた。3番目の妻キャサリン・メイホーンとは結婚後わずか3年で離婚している。
晩年は、息子で俳優のディーン・ポール・マーティン(Dean Paul Martin)が飛行機事故死したり(1987年3月21日、没年35歳)、長年の不摂生(実は甘党でキャノンボール2(1983)撮影中にコーヒーの角砂糖を5個も入れた事を:シャーリー・マクレーンが著書に記している)がたたり体調を崩すなどが原因で、キャリアに対する意欲を失うなど波乱が多かった。1988年には盟友フランク・シナトラからサミー・デイヴィス・ジュニアとの巡業に誘われたものの、リハーサルに遅れてきたり途中で帰ってしまったことから、シナトラが激怒、結局、巡業先のシカゴでリタイヤ、けんか別れしてしまう(その後、ディーンの代役はライザ・ミネリがつとめた)。30年に渡って共に仕事をしてきたシナトラとディーンは、その後再び同じステージに立つことはなかったという。
1995年12月25日カリフォルニア州ロサンゼルス郡ビヴァリーヒルズで、肺癌に併発した肺気腫により死去〔ディーン・マーティン IMDb 〕。。
彼の死は、盟友フランク・シナトラにも大きな衝撃を与えた。シナトラはマスコミに以下のコメントを発表している。
「友が逝ってしまった。長い年月共に仕事をしてきた親友が、彼とは血はつながっていないが兄弟だった。ディーンはいつまでも私の心の奥深くに生き続ける。」
マーティン語録④;俺の事をイタリアンと呼べる奴は唯一フランク・シナトラだ、俺もフランクをイタリアンと呼ぶ、だが他の奴等が呼んだら殴る!
※日本的な命名者は淀川長治と清水俊二

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ディーン・マーティン」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Dean Martin 」があります。




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