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デイヴィッド・ジョンストン (、1949年12月18日-1980年5月18日)はアメリカ人のアメリカ地質調査所 に所属していた火山学者である。アメリカ合衆国ワシントン州にあるセント・ヘレンズ山が1980年に噴火活動を起こした際、観測チームの主任科学者として、山頂から6キロメートル離れた位置に設けられていた観測所で当番についていた時に、5月18日の朝に起きた山体崩壊を伴う噴火に巻き込まれて死亡した。最初に噴火発生を報告した人物であり、無線に "" (バンクーバー! バンクーバー! ついに来た!」)と叫んだ後、横薙ぎの爆風と火砕流に巻き込まれて亡くなっている。ジョンストンの遺体は見つからなかったが、彼が使用していた のトレーラーは、1993年に州道管理作業員によって発見されている。 ジョンストンの経歴を見ると、アラスカ州のからコロラド州の、ミシガン州の長期間活動のない火山というように、アメリカ国内を渡り歩いて研究を行っている。彼は、火山性ガスの分析と噴火との関連に関する研究で、綿密で才能のある学者として認められていた。彼の示す熱情と前向きな姿勢は、多くの同僚から好意と敬意を受けており、彼の死後、幾人もの科学者が口頭もしくは献辞や書簡で彼の人柄を称えている。ジョンストンは自然災害から人々を守る一助となるために、科学者はリスクを取ってでも必要なことはやり遂げる必要があるとの信念を持っていた。彼と同僚の に所属する科学者の活動は、1980年の噴火に際して当局にセント・ヘレンズ山周辺への立ち入り規制の必要性を確信させた。解除を求める強い圧力のなか規制を維持し続けた結果、何千もの命が救われている。彼の物語は、一般の人々がもつ火山噴火と社会に対する脅威についてのイメージの中に組み込まれ、火山学の歴史の一部となった。2005年現在〔出典の出版時点。〕、ジョンストンは火山噴火により死亡した2人のアメリカ人火山学者の一人である(もう一人はハリー・グリッケン)。 その死後、ジョンストンを記念していくつかの動きがあった。ワシントン大学は大学院生を対象とする彼の名を冠した記念基金を設立している。また、彼の名を冠する火山観測所が、ワシントン州バンクーバーと彼が亡くなった尾根上の2ヶ所に設立された。彼の人生と死は、様々なドキュメンタリーや映画、ドラマ、書籍の題材となった。噴火の犠牲となった多くの人々とともに、ジョンストンの名前も彼の献身を悼み碑文に刻まれている。 == 経歴 == ジョンストンは1949年12月18日、でトーマス及びアリス・ジョンストン夫妻の子供として誕生した 〔 〕 〔 〕。 夫妻はイリノイ州に居を構えていたが、ジョンストンが生まれてすぐに、同じ州内のに転居した〔。ジョンストンは1人の姉妹〔出典からは姉か妹か判断不可。〕とともに育ち、父親は地元企業でエンジニアとして働き、母親は新聞の編集者をしていた。ジョンストンは時折、母親が関わる新聞用に写真を提供し、自分の学校新聞に寄稿している。彼に妻子はいない〔。 高校を卒業後、ジョンストンはイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校に入学し、当初はジャーナリズムを専攻する予定だったが、大きな講義クラスの程度の低さに失望し、受講した地質学の基礎クラスで興味を唆られて専攻を変更することにした〔。彼が最初に取り組んだ地質学の研究プロジェクトは、ミシガン州のアッパー半島を構成する先カンブリア時代の岩石を対象としたものだった。そこで彼は、変成した玄武岩や斑糲岩の岩床、閃緑岩と斑糲岩の貫入の形態をした火山の基盤など、当時の火山の痕跡を調査した。この経験は、ジョンストンに火山への情熱の火をつけた。講義を熱心に受講し〔、1971年に首席で卒業した〔 〕 〔 〕。 ジョンストンは卒業した夏に、コロラド州のに向かい、火山学者のピート・リップマンの2つの消滅したカルデラに関する研究を手伝った〔〔。この経験から、彼はサン・ファン西部にある漸新世の安山岩質火山群に注目し、シアトルのワシントン大学における卒業研究の第一歩となる着想に結びついた〔〔 〕。 ジョンストンが行った活火山ではない火山の噴火史復元は、その後の活火山研究の基礎となった〔。活火山に最初に対峙したのは、アラスカ州のにおける地球物理学的調査の際で、1975年のことだった。1976年にオーガスティン山が噴火するやいなや現地に舞い戻り、ひとまず修士論文としてまとめたシマロン火山の研究を打ち切り、オーガスティン山に集中して博士号研究を行った。その結果、ジョンストンは (1) 火砕流の堆積作用は軽石質が弱くなるにつれ、時間とともに変わっていくこと、(2) マグマに揮発性の高い水、塩素、硫黄が大量に含まれていたこと、(3) 地下で、(ケイ素を含む)珪長質マグマに粘性の低い苦鉄質(玄武岩質)マグマが混合することで噴火を引き起こしたこと、を示し、1978年に を獲得した。また、彼にとってオーガスティン山は初めて火山の危険性を身にもって経験した場所となった。強風により2機の脱出用ヘリが離陸できず、噴火の最中で立ち往生する寸前まで追い込まれた。3機目のヘリがなんとか離陸でき、彼らを助け出すことになる。〔 〕。 1978年と1979年の夏に、ジョンストンはカトマイ山の1912年の噴火で1万本の煙の谷に堆積した火山灰流層の研究を指揮した〔。 火山ガスの状態は、火山噴火の進展にきわめて重要である。この調査活動において、かれは過去の噴火において放出されたガスに関するデータの取得を可能にする、溶岩内に埋め込まれた斑晶の中に含まれているガラス質と気体の混合物を分析するのに必要な、多くの技術をマスターした。カトマイさんと1万本の煙の谷にある他の火山の研究活動は、その後の彼の経歴を切り開くことになる。彼の「快活さ、度胸、忍耐、そしての火口にあるジェット状の山頂噴気孔の近くで下した決断」は彼の同僚に強い印象を与えた〔。 1978年も押し詰まった頃、ジョンストンはアメリカ地質調査所に入所した。そこで彼はまず、カスケード山脈とアリューシャン列島の火山放出レベルの監視任務に就いた。その間に彼は、火山性ガスの組成変化から噴火の可能性をある程度予測する理論の改善を支援している〔 〕。 同僚の火山学者、ウェス・ヘルドリッチはジョンストンについて、次のように語っている「自分が思うに、デイヴが大事に抱えこんでいた大望は、噴気孔から放出されるガスを系統的に分析することで、噴火の前兆を示す特徴的な変化の検知を可能にすることだった…デイヴは爆発的噴火に先立つマグマ内の揮発成分の振る舞いを一般的なモデルとして公式化し、噴火の危険性を推論する論理的根拠を確立することだった〔」 この頃、ジョンストンは夏になるとオーガスティン山に向かい、また、アゾレス諸島とポルトガルの潜在的地熱エネルギーを評価している。また亡くなる寸前には、火山と人類活動により大気中に放出される物質が健康や農業、環境に与える影響に関心を示していた〔。 ジョンストンはカリフォルニア州メンローパークにある の支部に属していたが、彼が研究していた火山は北西太平洋地域全般に広がっていた。1980年5月16日に最初の地震がセント・ヘレンズ山で発生したとき、彼は近くのワシントン大学にいた(彼がかつて博士号を獲得した大学である)。噴火の可能性に興味を持ち、ジョンストンは大学の地質学教授であるステファン・マローンに会いに行った。マローンは彼がコロラド州のサン・ファン火山群で研究していた時の指導教官で、ジョンストンは彼の業績を賞賛していた〔。マルーンは即座に「彼を仕事に引き入れ」、火山の近くまで関心をもつ記者を案内させる役割を与えた。結果として、ジョンストンはセント・ヘレンズ山に赴いた最初の火山学者となり〔、すぐに の観測チームのリーダーとして、放出される火山性ガスのモニタリングを担当した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「デイヴィッド・ジョンストン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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