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伊丹 明(いたみ あきら、1911年 - 1950年12月26日)は、日系アメリカ人二世のアメリカ陸軍軍人。アメリカ名はデイヴィッド・アキラ・イタミ(David Akira Itami)〔軽部恵子書評 - 武田珂代子『東京裁判における通訳』 〕で、デイブ(Dave)とも呼ばれていた。 == 生涯 == アメリカ国籍。アメリカ合衆国カリフォルニア州オークランド生まれ〔。3歳より、鹿児島県加治木町の叔母のところに預けられ、そこで少年期を過ごす。鹿児島県加治木中学校を卒業後、1928年より大東文化学院に入学し、漢籍やインド哲学を研究する。 1931年に、アメリカに戻る。1935年に日本国籍を離脱する〔。カリフォルニア大学に入学し、日本語新聞の『加州毎日』の記者となる。1941年12月に勃発した太平洋戦争により、収容所生活を強いられるが、アメリカ陸軍情報部に勤務することとなる。任務は日本軍の軍事暗号を解読することであった。1943年に、ドイツから日本へ寄贈される2隻の潜水艦のうちの1隻、U-511には軍事代表委員の野村直邦中将が便乗することとなっていたが、そのやり取りに、薩隅方言が意思疎通に使われていた。アメリカ海軍情報局は盗聴しつつも、この会話が全然分からなかったのであるが、伊丹明によって会話内容が明らかにされた〔薩隅方言#暗号に使われた薩隅方言〕〔吉村昭『深海の使者』(文春文庫、1976年) p142~p152〕。 1946年4月に始まった極東国際軍事裁判で、伊丹は通訳モニター、すなわち日本側の通訳についてチェックする役割を担った。後に小説化された『二つの祖国』や、ドラマ化された『山河燃ゆ』において、戦争責任をめぐる裁判に関する業務において、アメリカ合衆国と日本との間での、仕事の上での重圧が耐え難いものだったことが、推測されている。 1950年に、ピストル自殺を遂げる。享年39。 なお、1984年にNHKにて、大河ドラマの『山河燃ゆ』が放送され、ハリー・K・フクハラと並んで主要登場人物のモデルとして注目されることとなった。なお、小説やドラマと違い、実際の伊丹夫人は、いわゆる「良妻賢母」だったと伝えられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊丹明」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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