|
森島 康仁(もりしま やすひと、1987年9月18日 - )は、兵庫県出身のプロサッカー選手。Jリーグ・ジュビロ磐田所属。ポジションはフォワード。 == 経歴 == 中学生時代にはセレッソ大阪の下部組織に所属。滝川二高を経て2006年にC大阪へ入団した。1年目はチームでは出場機会をほぼ得られなかったが、U-20日本代表に選出され中心選手として活躍。2006年のアジアユース選手権では3得点をあげ、日本の準優勝及び翌年の2007 FIFA U-20ワールドカップ出場権獲得に貢献した。2007年は同年途中にC大阪の監督に就任したレヴィー・クルピにスタメンに抜擢され、リーグ戦で6得点を記録。また、この年の6月から7月にかけて開催されたU−20ワールドカップでも2得点を記録しチームのベスト16入りに貢献。 2008年は試合出場機会が減少したため、7月に出場機会を求めて大分トリニータに期限付き移籍。大分ではJ1初先発初ゴールを経験した。2008年9月にはUAE戦とウズベキスタン戦に臨む日本代表に初選出されたが、出場機会はなかった。2009年シーズンから大分に完全移籍。その際大分がC大阪に支払う多額の移籍金が発生し、図らずもこのシーズン中に発覚する大分の財政危機の一つの原因を作ってしまった〔金谷元気 【コラム】引退も考えた『デカモリシ』と呼ばれた男・森島康仁の現在地 SOCCERNOW 2012.11.11付記事〕。翌2010年までは不調の時期が続き、本人によると「ポストに『死ね』『出ていけ』とか書かれ」、転居をすることになったという〔決勝アシストの森島はサポーターに感謝、「自分を再生させてくれた」 ゲキサカ(講談社) 2012年11月23日〕。2011年に大分の監督に田坂和昭が就任すると生活態度などを改め、心機一転した結果リーグ戦11ゴールと初の2桁得点を達成した。2012年はリーグ戦14得点と前年を上回るゴールを決め、J1昇格プレーオフ準決勝・京都サンガF.C.戦では自身初の1試合4得点を記録。決勝・ジェフユナイテッド市原・千葉戦では林丈統の決勝点をアシストする〔など大分のPO優勝及び4年振りのJ1昇格に貢献した。 2013年シーズンでは公式戦11ゴールで3年連続でチーム内得点王となる成績を残したが、スタメンの座を森島と同じくCFをメインポジションとする高松大樹に奪われる形となり途中出場が多かった。2014年は大分のJ2降格に伴い、川崎フロンターレに完全移籍〔森島康仁選手加入のお知らせ 川崎フロンターレ公式HP 2014年1月5日〕。川崎では、自身初となるAFCチャンピオンズリーグに出場したが、大久保嘉人からスタメンを奪えずリーグ戦12試合2得点で終えた。 2014年12月29日にジュビロ磐田へ期限付き移籍することが発表された〔森島康仁選手が期限付き移籍加入 ジュビロ磐田公式サイト 2014.12.29付ニュースリリース〕。開幕戦からジェイの控えでベンチになることが多かったが、ジェイが怪我で出場できない場合はスタメンで出場した。試合には出場するものの得点が奪えず5月に入ってからは3試合連続メンバー外を経験したが、5月31日に行われた徳島ヴォルティス戦で移籍後初ゴールを挙げた〔移籍後初ゴールも反省の磐田FW森島「あそこで喜んでしまった」 ゲキサカ 2015年5月31日〕。その後も、ジェイと川崎時代のチームメイトの大久保の名前を出し「俺は2人にはなれない。チームのためにプレーする」と語り〔磐田森島、ジェイに代わり先発へ 14日横浜FC戦 日刊スポーツ 2015年11月13日〕、ジェイの控えではあったが大事な長崎戦などで得点し〔磐田、今季初4連勝 次節にも2年ぶりJ1復帰 日刊スポーツ 2015年11月19日〕、2015年シーズンは26試合で3ゴールを挙げ、ジュビロの3年ぶりのJ1復帰に貢献した。同年12月26日に完全移籍する事が発表された〔森島 康仁選手が完全移籍加入 ジュビロ磐田公式サイト 2015.12.26付ニュースリリース〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「森島康仁」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yasuhito Morishima 」があります。 スポンサード リンク
|