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デカン戦争 : ミニ英和和英辞書
デカン戦争[でかんせんそう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦争 : [せんそう]
  1. (n,vs) war 

デカン戦争 : ウィキペディア日本語版
デカン戦争[でかんせんそう]

デカン戦争〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.243〕(デカンせんそう、英語:Deccan Wars)は、17世紀末から18世紀初頭にかけて、北インドを支配したムガル帝国の皇帝アウラングゼーブによるデカン地方南インドへの遠征によって、これらを支配する諸王朝との間に引き起こされた戦争。主とする戦闘のほとんどがムガル帝国とマラーター王国との間に行われたことから、ムガル・マラーター戦争(Mughal–Maratha Wars)とも呼ばれる。
この遠征戦争はムガル帝国における最大かつ最後の大規模征服戦争であった。この時代にアジアで行われた同様の規模の戦争は、 17世紀末にトルコオスマン帝国ヨーロッパ諸国との間で行われた大トルコ戦争だけである。
デカン戦争により、ムガル帝国の版図はアウラングゼーブの死までに、南端部を除くインド全域を含む広大なものとなったが、この戦争が原因で帝国は没落の道を歩むこととなった。
==概要==

===戦争に至る経緯===

ムガル帝国のデカン地方への介入が行われたのは、16世紀末から17世紀初頭、アクバルの時代のことである。この地域には、バフマニー朝の継承国家であるデカン・スルターン朝とよばれる諸国が割拠し、互いに争っていた。
1600年8月、ムガル帝国はアフマドナガル王国の首都アフマドナガルを落としたが、これ以降帝国のデカン地方への介入は断続的に続くこととなった。
17世紀前半、ムガル帝国はアフマドナガル王国の武将マリク・アンバルや、それを支援するビジャープル王国ゴールコンダ王国と幾度となく衝突を繰り返し、時には帝国側から寝返るものの現れた。
1636年2月、ムガル帝国はアフマドナガル王国を征服し、5月にはビジャープル王国とゴールコンダ王国に帝国の宗主権を認めさせ、皇帝の名を刻んだ硬貨を鋳造、使用させた。また、アフマドナガル王国の旧領の分割を行い、北半をムガル帝国が併合し、ビジャープル王国は南半を、ゴールコンダ王国はその一部を併合した。
その後も、ムガル帝国はデカン地方に介入し続けたが、1650年代にビジャープル王国で、マラーターの指導者シヴァージーが現れ、ラーイガド城を拠点にアラビア海に面するコンカン地方に独自の政権を持つようになった。
1660年代、アウラングゼーブの治世になると、帝国の領土をたびたび襲撃、略奪するようになり、軽騎兵を駆使してゲリラ戦を行い、重装兵を中心としたムガル帝国の軍を何度も破った。
1666年、アウラングゼーブはシヴァージーと和解策も取ろうとしたが、結局は決裂した。シヴァージーはこれ以降もムガル帝国の領土を襲撃、略奪し、1674年にはマラーター王を宣し、マラーター王国を樹立した。
1680年4月、アウラングゼーブを悩ませたシヴァージーは死亡し、アウラングゼーブは喜んだが、7月にラージプート諸王が反乱を起こしたため、まずこれの鎮圧を優先した〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.239〕〔メトカーフ『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』、p.51〕。
1681年9月、ムガル帝国とメーワール王国との和議が成立して、アウラングゼーブはデカンへの大規模な出兵に向けて準備した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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