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デトロイト包囲戦 : ミニ英和和英辞書
デトロイト包囲戦[でとろいとほういせん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

包囲 : [ほうい]
  1. (n,vs) siege 2. encirclement 3. envelopment 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 

デトロイト包囲戦 : ウィキペディア日本語版
デトロイト包囲戦[でとろいとほういせん]

デトロイト包囲戦(デトロイトほういせん、、またはデトロイトの降伏、またはデトロイト砦の戦い)は、米英戦争初期の1812年8月15日から16日に起きた戦闘である。アイザック・ブロック少将が指揮するイギリス軍正規兵と、ショーニー族指導者テカムセ指揮下の同盟インディアン連合部隊が、脅しや策略を使ってアメリカ軍准将ウィリアム・ハルを怖じ気づかせ、デトロイトの砦と町を降伏に追い込んだ。実際の勢力はアメリカ軍が上回っていたにも拘わらず、降伏してしまったので、アメリカ軍の士気が大きく減退した。
このイギリス軍の勝利は、アッパー・カナダの民兵や文民役人に活力を与えた。それ以前は戦争に悲観的であり、アメリカを支持する扇動者に影響を受ける状況だった。北西部領土の多くのインディアン部族は、アメリカの基地や開拓者に対して武器を取って立ち上がるよう吹き込まれた。イギリス軍はこの後1年間以上デトロイトを保持したが、エリー湖で小さな戦隊が敗北を喫した後で、アッパー・カナダの西部前線を放棄せざるを得なくなった。
== 背景 ==

=== アメリカ軍の作戦と動き ===
1812年前半、イギリスとの緊張関係が高まったアメリカ合衆国大統領ジェームズ・マディソン陸軍長官ウィリアム・ユースティスは、ミシガン準州知事ウィリアム・ハルなど多くの者から、元北西部領土の安全を守るための軍隊を結成するよう催促されていた。その地域では、イギリスの代理人や毛皮交易会社がインディアンに、アメリカ合衆国に対して立ち上がるようけしかけていた。特にデトロイトの基地を補強することが急がれた。そこの人口は800人だったが、平時の守備隊は僅か120名だった〔Elting, p. 24〕。またアッパー・カナダの西部を侵略することも提案されていた。そこは寛大な土地払い下げが行われており、アメリカ合衆国の領内から多くの移民が移っていったばかりだった〔Elting, p. 25〕ので、彼等からの支援が期待できた。
マディソンとユースティスは、この作戦に同意した。マディソンはその軍隊の指揮をアメリカ独立戦争からの古参兵であるハルに任せた。ハルは当初この指名を受けることを躊躇したが、自分と同じくらい権威と経験がある士官が即座には見つからなかった。マディソンからの要請が繰り返され、最後はハルが引き受けて、アメリカ陸軍准将に任官された〔Elting, pp. 24–25〕。
ハルの軍隊は当初、ルイス・カスダンカン・マッカーサー、ジェイムズ・フィンドリー各大佐が指揮するオハイオ州民兵の3個連隊で構成された。5月25日にデイトンでハルがこの軍隊の指揮を執ったとき、兵士達は装備が悪く、規律も取れておらず、また行軍させるために必要な物資の手配もできていなかった。ハルは急ぎ装備の不足を補う手配をした。6月10日、ジェイムズ・ミラー中佐のアメリカ第4歩兵連隊が加わり、アーバナから北へ行軍を始めた。ユースティスからの指示で、昔アンソニー・ウェインが築いたルートを無視し、オハイオ州北西部のブラック湿地を横切ってデトロイトに向かう新しいルートを造った〔Elting, pp. 24-26〕。6月26日、ユースティスからの6月18日付け手紙を受け取った。その内容は戦争が避けられない情勢にあると警告し、「できる限り早く」デトロイトを確保することを督促していた〔Elting, p. 26〕。ハルは部隊を急がせた。辛い行軍で疲れている荷車を引く馬の負担を軽くするために、土木工作用の道具、医薬品、士官の手荷物と文書類、病気になった兵士と軍楽隊を、モーミー川河口から貨物船''カヤホガ''に載せて、エリー湖を渡って運ばせることとした。
ユースティスはその6月18日付け手紙を、特使を使って送らせた。アメリカ合衆国議会はその日遅くに宣戦布告を行うことを承認したが、ユースティスはその重要な第二の報せを普通便でハルに送った〔Elting, p. 27〕。6月28日、オハイオ州クリーブランドの郵便局長は、急行騎手を雇ってこの手紙をハルの元に届けるよう急がせたが、それでも届いたのは7月2日になってからだった。ワシントンD.C.のイギリス大使はアメリカの宣戦布告の報せを急ぎイギリスとカナダに送り、カナダの軍隊指揮官は直ぐに全基地に戦争状態になったことを知らせた。7月2日、何も知らない''カヤホガ''が、デトロイト川河口にあるアマーストバーグのイギリス軍基地近くで、植民地海兵隊のカナダ人が乗り込んだ武装ブリッグ艦''ジェネラル・ハンター''に捕獲された〔。
ハルの軍隊は7月5日にデトロイトに到着した、ここでミシガン民兵隊分遣隊の補強を受けた。その部隊にはハルが1805年に設立していたミシガン・リージョナリー軍団の140名が含まれていた。アメリカ軍は物資、特に食料が不足していた。デトロイトには石鹸とウィスキーしか無かった〔。それでもユースティスはハルにアマーストバーグ攻撃を急がせていた。その砦は主にイギリス第41連隊の正規兵300名と、400名のインディアンおよび幾らかの民兵が守っていた〔Elting, p. 28〕。基地の指揮官はセントジョージ大佐であり、後に第41連隊のヘンリー・プロクター大佐と交替した。ハルは乗り気になっていなかったが、ユースティスに「イギリス軍が水域とインディアンを支配している」と書き送り〔Hitsman, p. 70〕、その軍隊は7月12日に川を渡ってカナダに入った。カナダ人にアメリカ軍に加わるか支援するよう誘うつもりで、幾つかの宣言も発行していた。その騎兵部隊の幾らかがテムズ川を遡り、モラビアタウンまで襲撃した。この動きで地元民兵の多くはハルの侵略に抵抗する気を無くしていたが、地元住人はアメリカ合衆国から移ってきたばかりの者であっても積極的にハルを支援しようとする者は少なかった。
カナード川沿いのイギリス軍基地と何度か小競り合いを行い、決着が付かなかった後で、ハルは砲兵隊が居なければイギリス軍の砦を攻撃できないと判断した。大砲の台車が腐り、修理を要していたので砲兵隊を前線に連れてきていなかった。ハル軍は撤退した〔Hitsman, pp. 71-72〕。ハルの部下の士官数人はこの撤退に同意できず、密かにハルを指揮官職から外す相談をしていた。ハルは軍隊の指揮を執って以来、民兵隊の隊長達との喧嘩が続いており、これでは戦場でも度々招集した作戦会議でも彼等の支持を得られないと感じていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「デトロイト包囲戦」の詳細全文を読む




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