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デビッド・デュバル(David Duval, 1971年11月9日 - )は、アメリカ合衆国フロリダ州ジャクソンビル出身のプロゴルファー。2001年の全英オープンゴルフ優勝者である。1999年3月から8月にかけて世界ランキング1位の座にいたこともあった。アメリカPGAツアーで「13勝」を挙げているが、現時点では2001年全英オープンが最後のPGAツアー優勝になっている。父親のボブ・デュバル(Bob Duval)もプロゴルファーである。 ジョージア工科大学を卒業し、1993年にプロ入り。1995年からPGAツアー参戦を開始する。1997年10月の「ミゲロブ選手権」でツアー初優勝を果たすと、翌週の「ウォルト・ディズニー・ワールド・オールズモビル・クラシック」で2週連続優勝を遂げ、年間最終戦の「PGAツアー選手権」(出場資格は当年度の賞金ランキング30位以内の選手のみ)でもいきなり優勝して、一気に3勝を記録し、ツアーデビューからわずか3年で賞金ランク2位に躍進(この年の賞金王は、ルーキーでマスターズを含む年間4勝のタイガー・ウッズ)。26歳の1998年には年間4勝を挙げて、初のPGAツアー賞金王になった。そして1999年に入ると、いきなり年間開幕戦の「メルセデス選手権」を史上最少ストローク記録(26アンダーパー)で制し、3月の「ザ・プレーヤーズ選手権」の優勝により、タイガー・ウッズを抜いて初の世界ランキング1位になった。この年のボブホープ・クライスラークラシックの最終日にツアータイ記録となる59を記録。8月の全米プロゴルフ選手権でウッズが優勝してからは、デュバルはもう2度と世界1位の座に戻ることはなかったが、この時期にはデュバルがウッズのライバルと見られていた。だが、メジャー大会の優勝争いで何度かチャンスを逃し、フィル・ミケルソンとともに“メジャー無冠の実力者”と呼ばれたこともある。2000年のセント・アンドリュースでの全英オープンでは、最終日は首位のタイガー・ウッズと6打差のスタートで、ウッズと最終組で廻り、7番ホールまでの4バーディで-14までスコアを伸ばし、ウッズに3打差まで詰め寄ったが、12、13、16番ホールでボギー、パー4の17番ホールでは第2打がトミーズ・バンカーにつかまり、脱出に4打、このホールは8打(ダブルパー)で優勝を逃した。しかし、2001年のロイヤルリザム・アンド・セントアンズ・ゴルフクラブ(パー71)での全英オープンで 10 アンダーパー(-10, 274ストローク)のスコアでメジャー初優勝を達成し、“メジャー無冠”を返上した。 全英オープンで優勝した後、2001年11月に初来日する。初出場のダンロップ・フェニックス選手権で、当年度の日本オープンゴルフ優勝者手嶋多一とのプレーオフを制して初優勝。宮崎の「フェニックス・カントリークラブ」には彼の名前にちなんで「デビッド・デュバル・ゴルフアカデミー」が設立された。(現在はデュバルの冠が取れ、「フェニックス・ゴルフアカデミー」と改名した。)翌週に静岡県御殿場市の「太平洋クラブ御殿場コース」で開かれた「EMCワールドカップ」のアメリカ代表として、世界ランキング1位のタイガー・ウッズとコンビを組んで出場する。大会期間中は2人とも万全の体調ではなかったが、最終日のフォアサムで最終18番ホール(パー5、517ヤード)の第2打をデュバルがミスした後、ウッズの“ミラクル・チップイン・イーグル”でアメリカ・チームはプレーオフに残った。4ヶ国によるプレーオフはアーニー・エルスとレティーフ・グーセンによる南アフリカチームが制し、アメリカ・チームはプレーオフ1ホール目で脱落した。 ところが2002年に入ると、デュバルのゴルフ人生は暗転する。左肩や腰などの故障に加え、婚約者との破局など公私両面の問題が重なり、この年のデュバルは賞金ランキング80位に落ち込んだ。2003年以後は、ツアー大会で予選通過もおぼつかないほど極度の不振状態に陥り、長い間スランプ脱出の手掛かりをつかめない苦悩が続いた。 2009年の全米オープンゴルフで、デュバルは久々の優勝争いに加わり、2 アンダーパー(-2, 67+70+70+71=278ストローク)で2位タイ入賞を果たした。優勝したルーカス・グローバーには2打及ばなかった。 ==プロ優勝 (19)== ===PGAツアー優勝 (13)=== 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「デビッド・デュバル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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