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デューイ・ロバートソン : ミニ英和和英辞書
デューイ・ロバートソン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

デューイ・ロバートソン : ウィキペディア日本語版
デューイ・ロバートソン[ちょうおん]

デューイ・ロバートソンDewey Robertson、本名:Byron James John Robertson1939年2月28日 - 2007年8月16日)は、カナダオンタリオ州キッチナー出身のプロレスラー
デューイ・ロバートソン名義で正統派のパワーファイターとして活動後、1983年に怪奇派のミッシング・リンクThe Missing Link)に変身。ザ・グレート・カブキカマラロード・ウォリアーズらと並ぶ、1980年代を代表するペイントレスラーとして名を残した。
== 来歴 ==
1960年代に地元オンタリオのトロント地区にて、デューイ・ロバートソンリングネームでデビュー。同郷のホイッパー・ビリー・ワトソンに見込まれ、彼のバックアップのもと、ベビーフェイスのハンサムガイとして活動する。トロントを本拠地に、アメリカ合衆国中西部北東部南部なども転戦し、1968年2月にはフロリダ州タンパにてアメリカ修行中の坂口征二とも対戦。NWAの総本山だったセントルイスキール・オーディトリアムでは、ウイルバー・スナイダーパット・オコーナーディック・ザ・ブルーザーなどスター選手のパートナーにも起用された。
1974年ザ・デストロイヤーの義兄弟であるビリー・レッド・ライオンと共に、白覆面のタッグチーム「ザ・クルセーダーズ」を結成〔。覆面レスラーマスクド・クルセーダー2号(''The Masked Crusader #2'')を名乗り、1977年1月にはクルセーダーズとして全日本プロレスに初来日。1月22日の三重県津市大会にて、高千穂明久&サムソン・クツワダが保持していたアジアタッグ王座に挑戦した。
その後は素顔に戻り、トロントのメープル・リーフ・レスリングおよび同団体と提携するノースカロライナミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリングで活動。1979年9月9日にはトーナメントの決勝でグレッグ・バレンタインを破り、NWAカナディアン・ヘビー級王座を獲得した。1980年12月12日にはジョージ・ウェルズと組んでブッチ・ミラー&ルーク・ウィリアムスザ・シープハーダーズからNWAミッドアトランティック・タッグ王座を奪取。当時アメリカ再修行でミッドアトランティック地区に出場していた天龍源一郎とも再三対戦しており、天龍&ミスター・フジのチームと同タッグ王座を争っている。1981年下期より中西部のセントラル・ステーツ・レスリングに参戦。翌1982年からはヒールに転向しマイク・ジョージマニー・フェルナンデスと抗争するが、1983年6月にハーリー・レイスに敗れNWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座を失ったことを機に、同地区を離れた。
同年下期、ビル・ワットが主宰するMSWAにて、顔面に緑色のペイントを施し、前頭部と後頭部の一部分のみを残して髪を剃り上げた怪奇派ヒール、ミッシング・リンクへのギミック・チェンジを決行。二枚目の正統派レスラーとして知られたこともあり、44歳になってからの大胆な変身は関係者を驚かせたが〔『プロレスアルバム51 これぞプロレス ワンダーランド!!』P10「現代の怪奇派たち ミッシング・リンクに見るレスラーの変身術」(1984年、恒文社)〕、ロード・ウォリアーズらに代表される当時のペイントレスラー・ブームを追い風に、かつてパンピロ・フィルポも名乗っていた、猿から人間への進化の過程上に存在したとされる謎の生物(失われた繋がり=ミッシング・リンク)というキャラクターのもと、アメリカ南部を中心に異色のヒール人気を獲得。MSWAではジム・ドゥガンと抗争し、アンドレ・ザ・ジャイアントとも対戦した。テキサス州ダラスのWCCWではスカンドル・アクバマネージャーキラー・カーンとタッグチームを結成し、ケビン&ケリー・フォン・エリックファビュラス・フリーバーズと激闘を展開。フロリダのCWFではパーシー・プリングル3世がマネージャーを務め、バグジー・マグローワフー・マクダニエルと抗争した。
1985年5月からは短期間ながらWWFに参戦。ボビー・ヒーナンをマネージャーに迎え、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンS・D・ジョーンズトニー・ガレアなどのジョバーを一蹴。メインイベンターではポール・オーンドーフブルーノ・サンマルチノトニー・アトラスイワン・プトスキージョージ・スティールマッドドッグ・バションらと対戦し、ティト・サンタナが保持していたWWFインターコンチネンタル・ヘビー級王座にも挑戦した。
同年10月にWWFを離脱してWCCWに復帰。1986年UWF(旧MSWA)にも登場し、6月14日にルイジアナ・スーパードームカマラとの怪奇派対決を行った。1987年9月20日にはカルロス・コロンの主宰するプエルトリコWWCスタン・ハンセンとも対戦している〔。
その後はドラッグ問題に直面したが克服、1993年には長期間に及ぶ大麻の常用により機能不全となった腎臓の摘出手術を受けた〔。1995年3月にはWARに来日。1977年1月の初来日以来18年ぶりの、そしてミッシング・リンクに変身後は初めてとなる日本マット参戦を果たし、ミッドアトランティック時代から因縁のある天龍と再会した(なお、両者は1980年代のプロレス漫画『プロレス・スターウォーズ』の作品中でも対戦している)。
1997年に現役を引退。以降はインディー団体にスポット出場し、ファンフェスタなどのイベントにも出演していた。2007年8月16日のため死去。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「デューイ・ロバートソン」の詳細全文を読む




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