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デルゲ王国 : ミニ英和和英辞書
デルゲ王国[でるげおうこく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 
王国 : [おうこく]
 【名詞】 1. kingdom 2. monarchy 
: [くに]
 【名詞】 1. country 

デルゲ王国 : ウィキペディア日本語版
デルゲ王国[でるげおうこく]
デルゲ王国は東チベットにあった小王国である。カム地方の産業・宗教・文化の中心であり、デルゲ〔デゲとも表記されるが、ここでは慣用的カナ表記のデルゲを採用する。〕の町(現在の四川省カンゼ・チベット族自治州徳格県更慶〔デルゲ県ゴンチェン〕の町)を首都としていた。
それぞれギェルポ(王)と呼ばれる領主が治めていたデルゲ、ナンチェン、チャクラ、リンツァン、ラトーの五王国や、デパやプンポと呼ばれる世襲の首長の小邦が分立していたカムの中で、デルゲ王は最大の勢力であった。最盛期の人口は12,000戸から15,000戸であった。青海湖をもって北の国境とし、東はルジャルロン語のホルパ語を使用する諸邦であるチャンツイとリタン、南西はバタン、サナイ、ゴンジョ、ダヤ、ラト、チャムドとそれぞれ境を接していた〔。
デルゲ王国は金属細工で知られ、チベット仏教超宗派運動の確立における重要な中心でもあった。デルゲ王家の人々は芸術の後援者として知られ、デルゲより輩出した芸術家には、王国の宮廷の上師であり、医師や宗教家としても知られたなどがいた。デルゲ王は18世紀前半に清朝土司制度に組み込まれ、徳格土司として冊封を受けながら王国の事実上の独立を謳歌していた。しかし19世紀後半以降、この地域は中国と中央チベットという東西の政権勢力に翻弄される複雑な歴史を辿ることになった〔小林亮介「ダライラマ政権の東チベット支配(1865-1911) : 中蔵境界問題形成の一側面 」〕。
==歴史==
デルゲ王は7世紀頃にチベット古代王国の東辺を支配していた有力な大臣家ガル氏にまで遡る系譜に連なることを自負していた〔Van Schaik, Sam (2011). ''Tibet: A History''. Yale University Press. pp. 160-168.〕。ガル一族は7世紀末にチベットを追放されたが、モンゴル帝国支配下の13世紀に一族の一人がサキャ派政権の下で重用され、クビライより千戸長に任命されてデルゲ方面に権力基盤を築いたとされる〔ロラン・デエ 『チベット史』 今枝由郎訳、春秋社、2005年、p98〕。以来、デルゲ一族はサキャ派との結びつきを保ち続けた。
デルゲは15世紀にデルゲ一族第31代ロドゥ・トプデンが本拠地に定めた土地であった。この地の有名なサキャ派の僧院である(デルゲ大僧院)をデルゲに創建した行者を招いたのもロドゥ・トプデンであった〔。17世紀中葉にはグシ・ハンの東チベット遠征に関わり、その過程でペリの王の領地を獲得してグシ・ハンよりデルゲ僧王の称号を賜ったと伝えられる。18世紀にはデルゲ一族第40代テンパ・ツェリンが北の領地を征服し、その治下で王国は拡大した〔。
1720年代、ジュンガル部のモンゴル軍をチベットより駆逐した後、カム地方はラサ政府所管の西部と、清の管轄する東部に分けられた(雍正のチベット分割)。こうして1727年までに、デルゲ王国を含めた東チベット東部は清の間接統治下に入った。デルゲ王国はカムという名の下に(スペンサー・チャップマンが「いっそう重要な諸地区」と呼んだところの)ニャロン、バタン、リタン、ホル五国といった他の諸邦と連結された。チャップマンはこのカムという名称について「条約や境界といった詳細に関して不確かであることに神経質になっているチベット政府にとって都合のよい不明瞭な用語」と表現した〔Chapman, F. Spencer. (1940). ''Lhasa: The Holy City'', p. 135. Readers Union Ltd., London.〕。1728年、清朝はデルゲ王テンパ・ツェリンに安撫使の官位を授け、1933年には高位の土司として宣慰司に昇格させた。これは事実上の独立を認めるものであったが、同時にデルゲ王には貢物の義務があった〔Coales, 224.〕。後背地が変わってもこの地域の諸侯間の闘争は絶えることなく、1860年には、その二三十年前から近隣を襲って台頭してきたニャロンの首長がデルゲまで迫り、1863年にデルゲはニャロン軍に制圧された。当時この地方の所属する四川省を管轄する清朝には、これを平定する余力なく、代わりに秩序回復に乗り出したのはラサのチベット政府であった。チベット軍はニャロンの軍勢を撃破してその首長ゴンポ・ナムギェルを殺し、デルゲ王は所領に帰還することができた。ラサ政府はこれを機にニャロンを直轄地とし、ニャロン総督という官職を置いてカム地方を監督させ、ニャロンの侵略者に協力的であったと見られた僧や僧院に対しては厳罰を下した。初めはチベット軍の働きに感謝し、歓迎したデルゲの人々も、やがてはラサ政府が権威的な姿勢をもって東チベットに強い影響力を及ぼすようになったことに気付いた〔。清に戦費を請求するも受け容れられなかったラサ政府は、清からニャロン管轄の追認を受けたものの、名目上はデルゲ王を含めたカム諸候は依然として清朝に帰属していた。が、ラサ政府はニャロン総督を通じてその近隣諸候への支配権を既成事実化させたのであった。
1900年代初頭、エリック・R・コールズは英国のために、デルゲ王国の「最近」の歴史についての情報を含む報告書を作成した〔Coales, 202.〕。コールズ・レポートによると、1895年、四川総督鹿傳霖はチャンツイに派兵し、さらにデルゲへと兵を進めた〔Coales, 222-223.〕。デルゲ王ロドゥー・プンツォクとその家族は成都に連行された〔。四川軍は中国での政治的陰謀のために撤兵を余儀なくされたが、これを待たずして王は、ドルジェセンゲとジャムペル・リンチェンという二人の息子を残して逝ってしまった。ドルジェセンゲは中国人の支持を得たが、腹違いの弟であったとも言われるジャムペル・リンチェンには、チャンツイに支持者がいた。二人は王座をめぐって争ったが、1908年になってドルジェセンゲは、チベットで中国の政治的主権を確保するための軍事行動を起こしていた清の軍人、趙爾豊に支援を要請した〔。ジャムペル・リンチェンはラサに亡命することを余儀なくされ、ドルジェセンゲは手当金と引き換えに王国を中国へ引き渡した〔Coales, 224-225.〕。趙爾豊は占拠した東チベットに西康省を立てた。その後、清および中華民国によるデルゲの直轄は1918年まで維持された〔が、次には1913年にチベット独立を宣言したダライ・ラマ政権がカム地方に再び支配権を及ぼすようになった。土司制度も復活し、ドルジェセンゲはデルゲ王に復位した。1932年には中華民国の統治下に入ったが冊封体制は維持された。1950年代、中華人民共和国の統治下での民主改革により、デルゲの土司制度は廃止された〔川田進「デルゲ印経院とデルゲ土司に見る中国共産党のチベット政策 」〕。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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