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トゥグリル3世[とぅぐりる3せい] トゥグリル3世(Tuğrul/Toghroul/Toghrul、Toghrul ibn Arslan ibn Toghrul〔イブン・アッティクタカー『アルファフリー』2(池田修、岡本久美子訳, 東洋文庫, 平凡社, 2004年9月)、260頁〕、 ? - 1194年3月19日)は、セルジューク朝の君主(スルターン、在位:1175年/76年 - 1194年)〔『新イスラム事典』(平凡社, 2002年3月)、581頁〕。ムハンマド・タパルを祖とするイラク・セルジューク家の君主としては、トゥグリル2世。 父のアルスラーン・シャーが没した後、1175年/76年に7歳のトゥグリル3世が王位を継承する〔井谷鋼造「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』(永田雄三編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2002年8月)、116-117頁〕。1190年にトゥグリル3世はアゼルバイジャンのイルデニズ朝(イル・ドュグュズ朝、イルデギズ朝)の君主クズル・アルスラーンの支配から脱しようとしたが敗れて投獄され、クズル・アルスラーンはスルターンを自称した〔Grousset, Rene, ''The Empire of the Steppes'', (Rutgers University Press, 1991), 158頁〕。翌1191年にクズル・アルスラーンは暗殺され、トゥグリル3世は王位を回復する。 成長したトゥグリル3世は主権の回復を試み、クズル・アルスラーンの甥でイラン中央のを支配するクトゥルグ・イナンチと対立する〔。また、アッバース朝のカリフ・ナースィルはホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・テキシュにトゥグリル3世の攻撃を扇動していた〔フィリップ.K.ヒッティ『アラブの歴史』下(講談社学術文庫, 講談社, 1983年1月)、266頁〕。 1194年3月19日にトゥグリル3世はレイ近郊でアラーウッディーン・テキシュと交戦し、落命した〔Grousset, Rene, ''The Empire of the Steppes'', (Rutgers University Press, 1991), 167頁〕。トゥグリル3世の首はバグダードに送られ、晒された〔。トゥグリル3世の死により、イラク・クルディスタンを支配する東方のセルジューク王家は滅亡した〔。 トゥグリル3世の娘はイルデニズ朝の君主ウズベクの妻で、後にホラズム・シャー朝のジャラールッディーン・メングベルディーと結婚した〔C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』4巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1973年6月)、20頁〕。 == 脚注 ==
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トゥグリル3世」の詳細全文を読む
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