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トゥグルク・ティムール(? - 1363年)は、チャガタイ・ハン国分裂後に成立したモグーリスタン・ハン国(東チャガタイ・ハン国)のハン(在位:1347年/48年〔濱田「モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝」『東アジア・ 東南アジア伝統社会の形成』、98頁〕 - 1363年)。14世紀半ばに東西に分裂したチャガタイ・ハン国を一時的に再統一したハンとして知られる。 == 生涯 == チャガタイ・ハン国の12代目のハン・ドゥアの子であるエミル・ホージャの落胤と考えられている〔佐口「トゥグルク・ティームール」『アジア歴史事典』7巻収録〕。天山山脈を拠点とするモグーリスタン・ハン国内の有力氏族であるのブラジ(プラジ)によってハンに擁立される〔。 マー・ワラー・アンナフル地方を支配する西チャガタイ・ハン国は1359年に有力者アブドゥッラーフが暗殺されて以降、各地に部族の長が割拠する分裂状態に陥っていた〔加藤『ティームール朝成立史の研究』、150頁〕。1360年にタシケントより西チャガタイ・ハン国が支配する西トルキスタンに軍を派遣し〔加藤『ティームール朝成立史の研究』、151頁〕、バルラス部の指導者ハージー、の指導者バヤンら、西チャガタイ・ハン国の有力エミール(貴族)に勝利を収めた。トゥグルク・ティムールに降伏した貴族の中にはハージーの甥ティムールもおり、トゥグルク・ティムールはティムールにキシュ(現在のシャフリサブス)を領地として与えた。 モグーリスタン軍が本国に帰還した後にハージーが反旗を掲げると、1361年3月から4月の間にトゥグルク・ティムール自身が西トルキスタンに進攻する〔。トゥグルク・ティムールはアム川を越えてヒンドゥークシュに至り、スルドゥス部のバヤン〔加藤『ティームール朝成立史の研究』、151-152頁〕、ヤサウリー部のヒズル〔川口『ティムール帝国支配層の研究』、234頁〕ら敵対者を捕らえ処刑した。西トルキスタンのエミールはトゥグルク・ティムールに降り、ハージーが暗殺された後にバルラス部の指導者となったティムールも彼の主権を認めた〔。トゥグルク・ティムールは1362年に子のイリヤース・ホージャを西トルキスタンの統治者に任命してモグーリスタンに帰国し、一時的に東西チャガタイ・ハン国の再統一がなされた〔。イリヤース・ホージャの補佐役に任じていたティムール、アブドゥッラーフの甥フサインらモグーリスタンの支配を拒むアミールたちはトゥグルク・ティムールに対して反乱を起こした。 1362年にモグーリスタン軍はティムールを撃破するが〔川口『ティムール帝国支配層の研究』、115頁〕、敗戦の後に勢力を盛り返したティムールによって1363年に西トルキスタンはトゥグルク・ティムールの支配を離れ、同年に彼自身も没した〔。 彼の遺体はアルマリクに葬られ、彼を祀った霊廟が霍城県(コルガス)に現存する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トゥグルク・ティムール」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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