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トゥルグト・オザル(トルコ語:Halil Turgut Özal、1927年10月13日-1993年4月17日)は、トルコ共和国の政治家、首相(1983年12月13日-1989年10月31日)、大統領(1989年11月9日-1993年4月17日)。 1980年の軍事クーデターの後、祖国党を率いて首相に就任。政党の離合集散が激しいトルコ政局にあって、約10年間の長期政権を実現した。経済政策の専門家として、トルコ経済の自由化を推進したほか、国是である政教分離原則を緩和し、トルコにおけるイスラームの復興現象にも影響を与えた。 首相在任中の1985年、イラン・イラク戦争によるイラク軍の攻撃から、イラン在住の日本人を救出するために派遣されたトルコ航空機の派遣を決断したことで知られる。 == 経歴 == オザルは1927年に東アナトリアのマラティアで生まれた。1950年にイスタンブル工科大学の電気工学科を卒業。その後、国家水利庁、電力調査庁などで勤務し、1961年の兵役を経て、国家計画庁 ()で勤務した。1966年に国家計画庁長官に就任し、テクノクラートとして頭角を現した。1971年から1973年まで世界銀行に出向し、帰国後は民間企業で勤務。1979年に成立した公正党のスュレイマン・デミレル政権では、総理府長官兼国家計画庁長官代理として、トルコの経済運営を事実上一任された〔松谷 p.226. 澤江pp.127-131.〕。 1980年にトルコ軍部は9月12日クーデターを起こし、デミレル政権は退陣、全政党は活動を禁止された。デミレル政権で軍関係者と良好な関係を築いていたオザルは、軍部によって擁立されたビュレント・ウルス政権で、経済担当副首相に抜擢された。 1983年の民政移管に際して、オザルは、クーデター前の主要4政党(公正党、共和人民党、国民救済党、民族主義者行動党)から同調者を募り、5月20日に、中道右派政党祖国党を結成した。祖国党は11月6日に実施された総選挙で、軍の推薦する民族主義者民主党を破り、400議席中211議席を獲得。議会の単独過半数を制した祖国党により、オザルは首相に選出された。祖国党は1987年の総選挙でも、単独過半数を獲得し、同年第2次オザル政権が発足した。 1988年には党大会で暗殺未遂事件に遭うものの、1989年にはジェラル・バヤル以来29年振りに、文民出身の大統領に選出された。オザルは大統領在任中も、1991年まで続いた祖国党政権に影響力を保持し続けた。 1993年4月17日、在任中に心臓発作で死去。国会は後任の大統領に、首相で正道党所属のスュレイマン・デミレルを選出した。 死因については軍部による毒殺であるとの説が長らくあったが、2012年に行われた解剖の結果、実際に遺体から毒物が検出された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トゥルグト・オザル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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