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トゥールーズ伯(仏:comte de Toulouse)は、フランスのトゥールーズとその周辺地域を支配した伯爵。 == 歴史 == メロヴィング朝時代、トゥールーズは南ガリアの最大の都市であり、フランク王の任命した公爵あるいは伯爵が統治した。628年頃に、ダゴベルト1世は、異母弟のカリベルト2世のためにアキテーヌ王国を建て、首都をトゥールーズに置いた。その後の、カール・マルテル時代までの80年間についてはよくわかっていない。721年にトゥールーズはアンダルス総督アル=サムフ・イブン・マーリク・アル=ハウラニーに包囲され、アキテーヌ公ウード(大公)により解放された。アキテーヌ公ウードは、後世、後のトゥールーズ伯の先祖であるとされたが、現在ではアキテーヌ公ウードと後のトゥールーズ伯との関係は否定されている。トゥールーズの実際の歴史は、カール大帝が息子であるアキテーヌ王ルートヴィヒ1世を任命し、トゥールーズを彼の最重要都市と位置付けた、780年または781年に再び始まったとされる。 ルートヴィヒ1世が未成年の間、彼の家庭教師であったトーソンが公爵もしくは伯爵としてトゥールーズを統治した。彼はヴォルムス帝国議会で退位させられ、ギヨーム・ド・ジェローヌ(Guillaume de Gellone)が後を継いだ。彼は806年に彼が新たにつくったサン・ギレーム・ル・デゼールに隠棲し、そこで812年に死去した。844年にトゥールーズはシャルル2世により包囲され、さらに4年後にはノルマン人に奪われた。ノルマン人は843年にガロンヌを出港し、トゥールーズの城壁までやってきたのである。852年頃、ケルシー伯レーモン1世は、兄のフレドロンのあとを継いで、ルエルグ伯およびトゥールーズ伯となった。以後、レーモン1世の子孫がトゥールーズ伯を1271年まで継承し、同伯家でケルシー伯、ルエルグ伯、アルビ伯、ニーム伯、セプティマニア辺境伯、およびプロヴァンス辺境伯の位を保持した。レーモン1世の孫は親の領地を分割相続し、レーモン2世はトゥールーズ伯に、アルマンゴルはルエルグ伯となり、世襲の地位であるセプティマニア、ケルシー、アルビは彼らで分けられた。レーモン2世の孫であるギヨーム3世はプロヴァンス伯女エンマと結婚し、その支配権の一部を次男のベルトラン1世に伝えた。ギヨーム3世の長男トゥールーズ伯ポンスには2人の子があり、長男ギヨーム4世は父親からトゥールーズ、アルビ、ケルシーを継ぐ一方、次男レーモン4世・ド・サン=ジルはルエルグの広大な領土を継ぎ、従妹にあたるフォルカルキエ伯ベルトラン1世の娘と結婚した。また、1088年頃より、レーモン4世は十字軍に参加した兄ギヨーム4世に代わり広大な領土を統治した。 最終的にレーモン4世は、プロヴァンス辺境伯、ナルボンヌ公およびトゥールーズ伯を継承し、トゥールーズ伯家は南フランスの最大の貴族となった。その後レーモン4世は第1回十字軍に参加し、エルサレムが征服されたときに、彼は現在のレバノン北部にあるトリポリの街を占領するため派遣された。彼はトリポリを征服する前に死去したが、十字軍国家のトリポリ伯国を建国したとされ、初代トリポリ伯に数えられている。トリポリが1109年に降伏したとき、彼の息子トゥールーズ伯ベルトランはこの地位を継ぎ、1187年にサラディンによりエルサレム王国が再び征服されるまで、トゥールーズ伯ベルトランの子孫がトリポリ伯位を継承した。 レーモン4世が聖地に赴いている間、トゥールーズはアキテーヌ公ギヨーム9世に占領された。ギヨーム9世は彼の妻フィリッパがギヨーム4世の娘であることからトゥールーズの継承権を要求したが、トゥールーズを長く保持することは出来なかった。レーモン4世の継嗣ベルトランは父に倣い1109年に聖地に赴きトリポリ伯位を継ぎ、トゥールーズは弟のアルフォンス・ジュルダンに遺された。アルフォンスの統治はギヨーム9世とその孫娘アリエノール・ダキテーヌの野心により混乱した。アリエノールは夫ルイ7世に戦争により彼女の権利を守るよう要求した。ルイとの離婚とイギリス王ヘンリー2世との再婚で、アリエノールの要求はヘンリー2世に受け継がれ、ついに1173年、ヘンリー2世はレーモン5世に対して、臣下の礼を取らせるに至った。トゥルバドゥールのパトロンとして知られるレーモン5世は1194年に死去し、息子レーモン6世が継いだが、彼は破門され、教皇インノケンティウス3世により一時トゥールーズ伯位を差し止められた。1208年、異端カタリ派の鎮圧のため訪れていた教皇特使ピエール・ド・カステルノーがレーモン6世の家臣により暗殺され、この事件をきっかけにアルビジョア十字軍が結成された。ランクドックはレスター伯シモン・ド・モンフォール率いるアルビジョア十字軍により荒廃した。レーモン6世は1211年に破門された上、1213年のミュレの戦いにおいて敗北し、1215年の第4ラテラン公会議において伯の財産を没収された。シモン・ド・モンフォールは1215年にトゥールーズを占領したが、1218年のトゥールーズ包囲戦で戦死し、レーモン6世は伯領を奪回した。 レーモン7世は、レーモン6世とイングランド王女ジョーンとの息子であり、1222年に伯位を継いだ。異端派の抵抗が続く中、1226年にレーモン7世の破門および伯領のフランス王への帰属が決定されると、フランス王ルイ8世は軍を率いてランクドックを制圧した。1229年のモー条約(パリ条約)において、レーモン7世は新王ルイ9世にローヌ川以西の領地を譲渡、一人娘で相続人のジャンヌとルイ9世の弟のポワチエ伯アルフォンスとの結婚を承諾した。1249年にレーモン7世は死去し、トゥールーズはジャンヌとアルフォンスが相続したが、二人の間には子供がなく、ともに1271年に死去し、広大なトゥールーズ伯領はフランス王領となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トゥールーズ伯」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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