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鄧嶽(とう がく、生没年不詳)は、中国の東晋の軍人。もとの名を岳といったが、康帝の諱に触れるため、嶽と改め、後にさらに岱と改名した。字は伯山。本貫は陳郡。 == 経歴 == 若くして将才があり、はじめ王敦の参軍となった。後に従事中郎・西陽郡太守に転じた。324年(太寧2年)、鄧嶽は王含に従い、建康を攻撃するために進軍した。王含が敗死すると、鄧嶽は周撫とともに蛮王向蠶のもとに亡命した。後に赦令が下ると、鄧嶽は周撫とともに出頭した。しばらくを経て、司徒王導の下で従事中郎となった。後に再び西陽郡太守となった。 327年(咸和2年)11月、蘇峻が反乱を起こした。328年(咸和3年)1月、平南将軍温嶠が鄧嶽・王愆期・紀睦らに水軍を率いさせて建康の救援に向かわせた。329年(咸和4年)、蘇峻の乱が鎮圧されると、鄧嶽は西陽郡に帰った。郭黙が劉胤を殺害すると、鄧嶽は大司馬の陶侃の命を受けて西陽の兵を率いて郭黙を攻めた。330年(咸和5年)、郭黙の乱が平定されると、鄧嶽は督交広二州軍事・建武将軍・領平越中郎将・広州刺史・仮節に転じ、宜城県伯に封じられた。336年(咸康2年)、鄧嶽は督護の王随を派遣して夜郎を攻撃させ、撃破した。督寧州を加えられ、征虜将軍の号に進み、平南将軍に転じた。339年(咸康5年)、成漢を攻撃した。建寧郡の孟彦が成漢の将軍の霍彪を捕らえて降伏してきた。後に死去した。 子の鄧遐(字は応遠)が後を嗣ぎ、桓温の参軍となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トウ嶽」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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