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鄧 祖禹(とう そう)は中華民国の政治家・軍人。孫文(孫中山)派の南方政府、国民政府に属する。後に中華民国維新政府や汪兆銘の汪兆銘政権(南京国民政府)に参加した。字は鑄久、滌清。 == 事跡 == 雲南陸軍講武堂を卒業。1913年(民国2年)、江西都督李烈鈞の副官となった。1915年(民国4年)の護国戦争(第三革命)でも李に随従して雲南省に赴いている。 1920年(民国9年)、鄧祖禹は広東駐留の雲南軍司令朱培徳の配下となる。1924年(民国13年)、広東衛戌司令の地位にあった蒋介石の副官に異動した。北伐に際しては、程潜配下の兵站監に任ぜられる。1927年(民国16年)、東路総指揮何応欽の下で政治部主任となった。後に胡漢民に属し、冀察政務委員会参議にもなる。 中華民国維新政府が成立すると、鄧祖禹はこれに参加する。内政部総務司長兼警政司長となり、さらに警察学校教育長もつとめた。1940年(民国29年)3月、汪兆銘政権(南京国民政府)の成立とともに、警政部常務次長に任命された。翌年8月、中央警官学校校長に異動し、1942年(民国31年)6月、首都警察総監となった。 1943年(民国32年)5月、九江に江西省政府が設立されると、鄧祖禹が初代江西省省長に任命された。翌月、同省保安司令を兼ねている。12月、新国民運動促進委員会江西分会主任委員に異動した。1944年(民国33年)1月、軍事委員会委員に任じられている。 日本敗北後、鄧祖禹は蒋介石の国民政府に逮捕される。1946年(民国35年)10月8日、懲役15年を宣告され、上訴後の1948年(民国37年)2月28日に懲役14年へ減刑された。その後の消息は不明である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トウ祖禹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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