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鄧艾(とう がい、、生年不詳 - 264年)は、中国後漢末期から三国時代の魏の将軍。字は士載(しさい)。荊州義陽郡棘陽県(河南省新野県)の人。子は鄧忠・その他二名。孫は鄧朗・鄧千秋。曾孫は鄧韜・鄧行。内政・軍事問わず多くの功績を挙げ、姜維の北伐を幾度も防いだ。晩年には蜀征伐を行ない、劉禅を降伏させた。 ==経歴== ===若き日=== 吃音であったが、知略と強い意志力を兼ね備えていた。幼くして父を亡くし、曹操が荊州を征した時に故郷から連行され、汝南の屯田民とされた。12歳になったとき、母に連れられ穎川に赴き「文は世の範たり、行ないは士の則たり」と書かれた陳太丘碑文を読んで、自ら名を鄧範、字を士則と名乗った。後に、一族で同じ名をつけた者が出たので、名を鄧艾、字を士載と変えた。12、3歳にして県から召しだされて役人となり、同い年の石苞とともに襄城典農部民に配属された。ちょうど陽翟出身の謁者である郭玄信が御者を探していたので、典農司馬は石苞と鄧艾を与えた。郭玄信は、彼らと語り合いながら十里あまり歩くうちに気に入り「あなた方は後に九卿・宰相に昇るだろう」と言った。〔『世語』による。〕 その後、都尉学士となったが、吃音のせいで周りから疎ましがられたため中々出世できず、苦学して典農の属官である稲田守叢草吏となることが出来た。同じ郡役人の父が鄧艾の家の貧しさに同情し、鄧艾に手厚い援助を施したが、鄧艾は全く御礼を言わなかった〔後に鄧艾は汝南太守となると、亡くなっていたその役人の父を祭り、その役人の母に贈り物を与え、その役人の子を計吏に推挙した。〕。この頃、彼は高い山や広い沼地などを見かけると、いつも軍営を設置するのに適当な場所を探そうと測量を行ない、それを地図に書き記していた。当時、彼のこの行動を奇異であるとして嘲笑する者が多かったという。典農綱紀・上計吏と昇進し都に使者として赴いたとき、司馬懿に謁見できることとなった。司馬懿は彼の才能を高く買い、鄧艾を属官に任命し、次いで尚書郎に昇進させた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トウ艾」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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