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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
トニー・チャールズ(Tony Charles、本名:Anthony Charles、1936年 - 2015年2月14日〔)は、イギリス・ウェールズ出身のプロレスラー〔。生年は1940年ともされる〔。 英国マットを活動拠点に、日本にも初期の国際プロレスや新日本プロレスに度々参戦。1970年代からはアメリカに渡り、技巧派のベビーフェイスとしてNWAの南部テリトリーを中心に活躍した。 == 来歴 == アマチュアレスリングでの活動を経て、1959年にプロデビュー〔。1968年2月、「英国西部ヘビー級王者」として国際プロレスに初来日したが、残留参戦した4月開幕の『日欧チャンピオン決戦シリーズ』においてグレート草津に敗れ、王座を明け渡している〔。同シリーズではビル・ロビンソンと組んで豊登&サンダー杉山が保持していたTWWA世界タッグ王座にも挑戦した。国際プロレスには、1969年6月にも再来日している。 1970年代に入り、ロビンソンやアル・ヘイズらと同様に彼もアメリカのマット界に進出。1972年6月にはテネシー地区(後のCWA)にて、NWAミッドアメリカ・ヘビー級王座を獲得した。翌1973年1月には新日本プロレスに初参戦。以降も新日本プロレスの常連外国人選手となり、アントニオ猪木ともシングルマッチで対戦。1974年1月の再来日ではピート・ロバーツとも英国人タッグを組んだ。同年12月19日にはブラジルのサンパウロにて、アンドレ・ザ・ジャイアントのパートナーとなって猪木&坂口征二が保持していた北米タッグ王座にも挑戦している〔『1945-1985 激動のスポーツ40年史 (6) プロレス 秘蔵写真で綴る激動史』P161(1986年、ベースボール・マガジン社)〕。 アメリカでも同じ英国出身のレス・ソントンとのタッグチームで活動し、1975年12月にはジム・バーネットが主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングにてボブ・バックランド&ジェリー・ブリスコからNWAジョージア・タッグ王座を奪取。フリッツ・フォン・エリックが主宰するダラスのNWAビッグタイム・レスリング(後のWCCW)でも、1976年にロッキー・ジョンソン&ホセ・ロザリオを破りNWAテキサス・タッグ王座を獲得している。 1977年3月には新日本プロレスの第4回ワールドリーグ戦にイギリス代表として出場。マスクド・スーパースターやニコライ・ボルコフなどスーパーヘビー級の大型選手とも総当たり公式戦で対戦したが、軽量のハンデが響き戦績は芳しくなかった。新日本プロレスには通算4回参戦し、このときが最後の来日となっている。 アメリカでは1979年、アラバマのサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリングが認定するUSジュニアヘビー級王座をケビン・サリバンと争った。その後は古巣でもあるテネシー州メンフィスのCWAを主戦場に、モンゴリアン・ストンパー、ロン・バス、ボビー・イートン、ガイ・ミッチェル、ジプシー・ジョーらと対戦。1981年には、当時CWAに参戦していたビル・ロビンソンとも英国人同士の抗争を展開し、2月2日のミッドサウス・コロシアムでのイベントではロビンソンから勝利を収めている。 以降はビル・ワットが主宰していたMSWAを経て、1982年下期よりダラスのWCCWにて、ザ・チェックメイト(The Checkmate)なるヒールの覆面レスラーに変身。一時期はタイガーマスクと同じ覆面を被り、ザ・グレート・カブキやマジック・ドラゴンとも共闘。ケビン、デビッド、ケリーのフォン・エリック兄弟やバグジー・マグローと対戦し、1982年10月4日にはビル・アーウィンを破りTV王座を獲得した。なお、ザ・チェックメイトのギミックは、かつてのパートナーであるレス・ソントンも英国時代に使用していたことがある。 その後は素顔のベビーフェイスに戻り、キャリア晩年の1983年からはアラバマやフロリダで活動、アラバマではデニス・コンドリー&ノーベル・オースチンのミッドナイト・エクスプレス、フロリダではイライジャ・アキーム&カリーム・モハメッドのザンブイ・エクスプレスやヘクター・ゲレロと対戦している。引退後もフロリダにてプロレスのトレーナーを務め、ジョー・マレンコらを指導した。 2015年2月14日、死去〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トニー・チャールズ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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