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トニー・マレーン(Anthony John "Tony" Mullane, 1859年1月20日 - 1944年4月25日)は、19世紀に活躍したアメリカ・メジャーリーグの野球選手(投手)。アイルランド・コーク州生まれ。スイッチヒッター。ニックネームは「Count」「The Apollo of the Box」。主にシンシナティ・レッズで活躍し、通算284勝をあげた19世紀の代表的な投手の一人。メジャーリーグ史上初めて、左右の腕で投げたという記録も持つ。 ==経歴== 1864年にアメリカに移住して野球の選手となり、1881年にデトロイト・ウルバリンズに入団。8月27日の試合で強豪だったシカゴ・ホワイトストッキングス(現カブス)から初勝利を挙げるが、同時に指を怪我してしまいこの年は5試合の登板にとどまる。マレーンは元々右投げだったが、右腕の怪我をきっかけにして「左投げ」を独学でマスターしたという。マレーンが当時守備の際にグラブをつけていなかったのも、左右投げを容易にした一因と考えられている。 翌1882年はルイビル・エクリプスに移り、55試合に登板して30勝24敗、防御率1.88、リーグ最多の170奪三振という活躍をし、チームをリーグ2位まで引き上げた。同年7月18日のボルチモア戦では、メジャーリーグ史上初めて1試合の中で腕の左右を変えて投球する記録を残し、また9月11日のシンシナティとの試合ではノーヒットノーランも達成した。 マレーンはその後セントルイス、トレドと毎年所属するチームを変えながらシーズン30勝以上を挙げ続けたが、1884年のオフに二重契約の問題を起こし(セントルイス・ブラウンズとの契約に口頭で合意しながら、シンシナティ・レッズと5,000ドルの契約を結んだ)、1年間の出場停止処分を受けてしまう。処分の開けた1886年以降マレーンは8年間レッズに在籍し、30勝以上を2度、20勝以上を5度記録するなどチームのエースとして活躍したが、一方で賭博師との関係を新聞に指摘されたり、給料の支払いを廻って球団を訴えたりと何度かトラブルも起こしていた。 30歳を過ぎ、投手-本塁間の距離が60フィート6インチに改正されたことで防御率を大きく落としたマレーンは、1893年にレッズからボルチモア・オリオールズにトレードに出される。この年は18勝22敗と踏ん張ったが、すぐ翌年には名投手ジョン・クラークソンとの交換要員としてクリーブランド・スパイダーズにトレードされ、この年限りでメジャーリーグから引退した。 その後1895年には、チャールズ・コミスキーが監督をしていたウェスタンリーグのセントポール・セインツに参加し、1898年にはアメリカンリーグ設立前のデトロイト・タイガースの監督を1年間つとめている。1944年にシカゴで死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トニー・マレーン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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