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トマス・ロバート・マルサス(Thomas Robert Malthus、1766年2月14日〔2月13日・17日説もあり〕 - 1834年12月23日)は、イングランドのサリー州ウットン出身の経済学者。古典派経済学を代表する経済学者で、過少消費説、有効需要論を唱えた人物として知られる。 == 来歴 == 父は弁護士で植物学者のダニエル・マルサスで、啓蒙主義者である。彼はジャン=ジャック・ルソーやデイヴィッド・ヒュームと親交があり、マルサスの生年1766年に自宅にルソーとヒュームを招待している〔中矢俊博 『やさしい経済学史』 日本経済評論社、2012年、24頁。〕。''Malthus''の名前の由来は''Malthouse''(麦芽製造所)、つまりウィスキー工場とされている(ジョン・メイナード・ケインズ 『J.M.ケインズ 人物評伝』 75頁より)〔小泉祐一郎 『図解経済学者バトルロワイヤル』 ナツメ社、2011年、221頁。〕。その第2子として生まれ、家庭教師から指導を受け、また父からもきめ細かな教育を受けた。 18歳でケンブリッジ大学ジーザス・カレッジに入学し、数学と文学を学び、1788年に卒業した後、キリスト教執事を目指して勉学に励んだ。その間の1796年に『危機』を著した。出版はしなかったが、これが最初の著書となった〔フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ フランス革命ー世界大戦前夜 原書房 2005年 27ページ〕。 1793年、母校のケンブリッジ大学ジーザス・カレッジにて特別研究員となり〔Venn, J.; Venn, J. A., eds. (1922–1958). "Malthus, Thomas Robert". Alumni Cantabrigienses (10 vols) (online ed.). Cambridge University Press.〕、1805年には東インド・カレッジ(通称ヘイリーベリー・カレッジ)の教授となった〔Malthus T. R. 1798. An Essay on the Principle of Population. Oxford World's Classics reprint: xxix Chronology.〕。経済学の教授の任命は、イギリスでは初めてのものだった〔。 1798年に匿名で小冊子の主著『人口論』を著し〔日本経済新聞社編 『世界を変えた経済学の名著』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2013年、150頁。〕〔経済学史の窓から 第7回 マルサスは陰鬱な科学者か? 書斎の窓〕、この中で「幾何級数的に増加する人口と算術級数的に増加する食糧の差により人口過剰、すなわち貧困が発生する。これは必然であり、社会制度の改良では回避され得ない」とする見方(「マルサスの罠」)を提唱した。 マルサスはドイツ、スウェーデン、フィンランド、ロシアに滞在し、その国の人口を観測し、自説の補強に力を注いだ。そして、より科学的な『人口論』第2版を1803年に出した。この版には政治経済に関する重要論文が追加されている。このようなマルサスの考え方を誹謗するものも多数いたが、一方名声も大きなものになり、産児制限で最貧困層を救おうとする考えを「マルサス主義」ともいわれるようになった。経済学者として認知されるようになり、1803年には新しく設立された東インド会社付属学校の政治経済学教授の職に付き、官僚の育成に当たっている〔フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ フランス革命―世界大戦前夜 原書房 2005年 28ページ〕。 1810年に『不換紙幣に関する論考』を、1814年には『小麦法の効果についての考察』、1815年に『地代の性質と増加についての調査』などを著している。1820年にはデヴィッド・リカードの経済説に反論した『経済学原理』(小林時三郎訳注、岩波文庫上下)を著した。日本語訳書では『マルサス北欧旅行日記』(小林時三郎、西沢保訳、未來社、2002年)および『マルサス学会年報』〈マルサス学会編、1991年-2006年度版、2008年10月刊行、雄松堂出版〉15冊がある。 マルサスは、東インド会社カレッジの教授として終生務め、保養地のバースで没したのは1834年12月29日である。その間、『人口論』を改定するなど執筆活動を旺盛に行った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トマス・ロバート・マルサス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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