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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
トーマス・クレメント・“トミー”・ダグラス(Thomas Clement “Tommy” Douglas、1904年10月20日 – 1986年2月24日)は、カナダの政治家。1944年から1961年までサスカチュワン州において、北米では初の社会主義者の州首相として、カナダの建国史上初めて、ユニバーサルヘルスケア(包括的公衆医療制度)を取り入れた人物として知られ、「カナダの医療の父」として国民から高い尊敬を得ている。州首相を退任した後は、1961年から1971年まで、新民主党の党首を務めた。 2004年にカナダ放送協会が実施した「最も偉大なカナダ人」の調査では、1位に選ばれている。 == 活動初期 == スコットランドのフォルカークで生まれる。1910年に家族でカナダへ移民し、ウィニペグに定住した。幼少期に、足に怪我を負った事が原因で骨髄炎に患い、切断も免れないといった状況にまで追い込まれた際に、とある外科医から、ダグラスの病気を研究材料として学生達を手術に立ち会わせる事を条件に、無料で治療を受ける事ができたという経験があった。この経験が、あらゆる人間が安心して健康な生活を送る為の医療を享受できる様にしなければならない、というダグラスの信念の基となった。 第一次世界大戦の間は、一時グラスゴーに戻っていたが、1919年に再びウィニペグの地を踏んだ。同年に、ウィニペグでゼネラル・ストライキの現場を目撃したが、その際警察官達が警棒や銃でデモ隊を鎮圧し、騎馬警察によって2人の市民が射殺されるといった光景を目の当たりにした。 1924年にブランドン大学に進学し、そこで社会的福音運動の影響を受ける様になった。1930年にブランドン大学を卒業した後は、1933年にマックマスター大学で社会学の修士号を取得した。卒業論文のテーマは、優生学の観点に基づいた「低能児家庭の問題」というもので、問題を解決する方法として、障害を抱える国民を精神的かつ身体的にも断種を行い、彼らを特定のキャンプに収容するといった様な内容を提案していた。しかし、1938年にナチス・ドイツを訪問して以降は、前述の様な思想を改め、生涯前述の論文に関しては一切言及せず、政治家となってからも、優生学に基づいた政策を実行する事は無かった。 以降は、サスカチュワン州のウェイバーンにあるカルバリー・バプティスト教会の牧師となった。世界恐慌の渦中で、ダグラスは社会主義に傾倒するようになり、この頃に社会主義政党である協同連邦党(新民主党の前身)に入党した。1935年には、下院議員に選出された。 第二次世界大戦の勃発に伴い、カナダ軍に召集され、海外への派遣を志願したが、前述の骨髄炎による後遺症から、兵役を免除された。ちなみに、ダグラスが加わるはずだったウィニペグ連隊は、1941年の香港の戦いでメンバーの全員が死亡もしくは捕虜になるという結末をたどった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トミー・ダグラス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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