|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
トミー・リッチ(Tommy Rich)のリングネームで知られるトーマス・リチャードソン(Thomas Richardson、1956年7月26日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。テネシー州ヘンダーソンビル出身。ニックネームは "Wildfire"(野生の炎)。 == 来歴 == 1974年、ジェリー・ジャレットにスカウトされ、地元テネシーのNWAミッドアメリカ地区でプロレスラーとしてデビュー。以降1980年代を通し、テネシーのCWA、ジョージアのGCW、アラバマのSECWなど、南部の団体を主戦場に活動。ジョージアではオースチン・アイドル、マスクド・スーパースター、オレイ・アンダーソン、イワン・コロフ、バズ・ソイヤー、ファビュラス・フリーバーズ、ザ・グレート・カブキなどトップクラスのヒールと流血の抗争を繰り広げ、ベビーフェイスとして一時代を築いた。 1981年4月27日、ジョージア州オーガスタでハーリー・レイスを破り第59代NWA世界ヘビー級王者となる。その4日後にはマリエッタでレイスにタイトルを奪還されたが、この記録はジャイアント馬場をしのぐNWA世界王座史上の最短命記録であり、史上最年少での王座戴冠記録でもあった。マイケル・ヘイズがテレビ番組『WWE 24/7』で語ったところによると、この王座移動はNWAまたはレイスの許可なく、プロモーターの指示でレフェリーが早くカウントを取り勝利させたものだという〔GCWプロモーターのジム・バーネットは同性愛者を公言しており、トミー・リッチはバーネットと寝て王者になったという噂が今も残っている。それほど、彼の王座移動は議論の的になっている。〕。 1983年2月、全日本プロレスに初来日し、ジョージア時代のカブキとの抗争を再現〔『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P44(2002年、日本スポーツ出版社)〕。その後も度々来日し、ジャンボ鶴田と好勝負を残している(両者ともフライング・ボディシザース・ドロップを得意にしていた)。また、アメリカにおけるスタン・ハンセンの盟友として、プロレス専門誌の海外情報コーナーにも頻繁に登場した。1980年代後半には古巣のCWAに復帰し、旧敵オースチン・アイドルと組んでジェリー・ローラーと抗争(この抗争劇は、業界紙『レスリング・オブザーバー』において1987年の "Feud of the Year" に選ばれている)。1988年11月には全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦にディック・スレーターとのコンビで出場した。 1991年からWCWへも参戦し、1993年にはUSWA、1995年にはジム・コルネットのSMWで活動。この頃になると体重も増加し、ラリー・シャープを思わせる風貌・体型になり、かつての金髪アイドルのイメージを完全に払拭してヒールに転向した。1996年よりECWに登場し、ザ・ビッグ・ドン(The Big Don)のニックネームでイタリア系ユニットF.B.I.のマネージャーとしても活動〔リッチ自身はイタリア系ではないが、F.B.I.はプロレスにおける民族ギミックのパロディ的な側面を持っていたこともあり(黒人のメンバーもいた)、イタリア系の出自を自称して「ビッグ・ドン」を名乗った。また、架空の6人タッグ王座をでっち上げ、当時は1990年代後半であったにもかかわらず「先月はフリーバーズ、今月はエリック兄弟の挑戦を受けた」などと時空を超えた戦歴を吹聴した。〕。 2000年にECWを離れプロレス界から引退したが、2006年よりインディー団体への単発出場を開始。かつてのライバル達との因縁の対決も再現しており、2007年5月15日にジョージアのAll-Star Championship Wrestlingにてマスクド・スーパースター、同年8月5日にクリーブランドのAll-Pro Wrestlingにてジミー・スヌーカと対戦した。2008年6月7日には、アトランタで行われた "NWA 60th Anniversary Show" にてアブドーラ・ザ・ブッチャーとノーコンテストの激闘を演じている。2009年8月9日にはECWの影響下にあるJCWが主催した "Bloodymania" に登場、サブゥー対レイヴェン戦においてレイヴェンのマネージャーを務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トミー・リッチ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|