|
トム・ハー(Thomas Mitchell Herr , 1956年4月4日 - )はアメリカ・メジャーリーグで活躍した野球選手。内野手(二塁手)。右投両打(スイッチヒッター)。アメリカ合衆国ペンシルベニア州ランカスター出身。 == 人物・来歴 == にドラフト外でセントルイス・カージナルスと契約。傘下マイナーでのプレイを経てにメジャー昇格。にはレギュラー二塁手となり、103試合で23盗塁。は135試合で打率.266、本塁打0と打撃は非力であったが、25盗塁を記録してチームのワールドシリーズ進出に貢献する。ミルウォーキー・ブルワーズ(当時はア・リーグ所属)とのワールドシリーズ第4戦では、三塁にウィリー・マギー、二塁にオジー・スミスを置いた場面で打席に立ち、センターに犠牲フライを打ったが、二塁走者のスミスが一気にホームに還り、珍しい「二点犠飛」を記録した。このシリーズは第7戦までもつれ込んだが、最後はカージナルスがワールドチャンピオンに輝いた。 俊足を生かしてマギー、オジー・スミス、ロニー・スミスらとともに「ホワイティ・ボール」(監督ホワイティ・ハーゾグ好みの俊足)の一員として活躍。ベストシーズンは。打力も向上し、主に三番を打ったが、一番でこの年新人で110盗塁したビンス・コールマン、二番で首位打者・MVPを獲得したマギーと前の打者の出塁・脚力に恵まれたこともあり、打率は.302、本塁打8(これでも自己最多)ながら110打点をマーク。「本塁打10本未満で100打点」は、20世紀初の記録で、後年にポール・モリター(当時ミネソタ・ツインズ、9本塁打で113打点)が2人目となったが、1901年以後現時点でこの2名のみである。また、ハー自身も31盗塁を記録、コールマン(110)、マギー(56)、O.スミス(34)、アンディ・バンスライク(31)と共に「30盗塁以上5人」とまさに「ガスハウス・ギャング」の再来であった。ハーはこの年自身唯一のMLBオールスターゲーム出場を果たし、MVP投票でもナ・リーグ5位であった。チームはリーグ優勝し、ワールドシリーズ出場を果たしたが、3勝1敗の優位からカンザスシティ・ロイヤルズに敗れる。 には打率.252と、元のレベルに低下。4月18日にはニューヨーク・メッツとの試合でサヨナラ満塁本塁打を記録。この年はこれを含めてもわずか2本塁打であったが83打点と活躍し、自身三度目のワールドシリーズ出場を果たすが、ミネソタ・ツインズに敗れる。は開幕から精彩を欠き、強打者補強が急務になったチーム事情(前年オフに唯一の強打者ジャック・クラークをフリーエージェント(FA)で失い、前年ヤクルトスワローズに所属していたボブ・ホーナーを獲得したが、開幕から不振。)もあり、4月22日に、トム・ブラナンスキーとの交換トレードで前年のワールドシリーズの対戦相手ツインズに移籍した。 には故郷ランカスターに近いフィラデルフィアのフィリーズにFA移籍。その年は151試合で打率.287とまずまず活躍するが、翌途中でニューヨーク・メッツに移籍。は打率1割台の不振で、8月5日にメッツを解雇された。8月15日にサンフランシスコ・ジャイアンツと契約するが、シーズン終了後に解雇され、そのまま引退した。 引退後、に独立リーグランカスター・バーンストーマーズ(英語版)の監督に就任し、にはリーグ優勝を果たす。これが認められ、にはワシントン・ナショナルズ傘下の1Aハーガースタウン・サンズの監督に就任するが、1年限りで辞任。にはかつてフィリーズでチームメイトであったボン・ヘイズ監督の下、ベンチコーチとしてバーンストーマーズに復帰した。 長男アーロン・ハーはのドラフト会議でアトランタ・ブレーブスから1巡目に指名された。カージナルス、シンシナティ・レッズ等の傘下マイナーを転々としたがメジャー昇格できず、2009年には父と同じバーンストーマーズに在籍することとなった。もう一人の息子ジョーダン・ハーは逆に、はバーンストーマーズでプレイしていたが、2009年にはシカゴ・ホワイトソックス傘下のマイナーでプレイすることとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トム・ハー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|