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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
"ドクター" トム・プリチャード(Dr. Tom Prichard)ことトーマス・プリチャード(Thomas Prichard、1959年8月18日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。テキサス州パサデナ出身。 元WWF世界タッグ王者。近年はWWEのトレーナーとしての活動で知られる。WWEのブッキング・コンサルタントを務めていたブラザー・ラブことブルース・プリチャードは彼の弟である。 == 来歴 == ホセ・ロザリオのコーチを受け、1979年にデビュー〔『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P54(2002年、日本スポーツ出版社)〕。キャリア初期はカリフォルニア南部のNWAロサンゼルス地区にてベビーフェイスの新鋭として売り出され、1980年にアル・マドリルと組んでオックス・ベーカー&エンフォーサー・ルシアーノからアメリカス・タッグ王座を奪取。同年8月8日にはオリンピック・オーディトリアムにて藤波辰巳のWWFジュニアヘビー級王座に挑戦した。翌1981年1月、新日本プロレスに初来日し、四日市にて藤波の同王座に再挑戦している〔。 1983年から1985年の初頭にかけては太平洋岸北西部のパシフィック・ノースウェスト地区で活動。その後、テネシー州メンフィスのCWAを経て、1986年よりアラバマのガルフ・コースト地区に入り、以降1980年代全般に渡り同地区(コンチネンタル・チャンピオンシップ・レスリング、コンチネンタル・レスリング・フェデレーション)に定着。初期はUSジュニアヘビー級王者、後にNWAアラバマ・ヘビー級王者やCWFヘビー級王者となって活躍した。 1989年10月、新本プロレスに8年ぶりの再来日を果たし、同年4月にデビューした獣神ライガーと対戦。1990年代に入るとジェリー・ローラーとジェリー・ジャレットが主宰していたCWAの後継団体USWAを主戦場に活動。ヒールに転向して若手時代のスティーブ・オースチンらと共闘し、ジェフ・ジャレット、ロバート・フラー、ビル・ダンディー、ブライアン・クリストファーと抗争を展開した。1991年9月には同じくUSWAで活動していたエディ・ギルバートと共に、旗揚げして間もないW★INGに来日している。 1992年からはノックスビルのスモーキー・マウンテン・レスリング(SMW)に参戦し、団体のオーナーであるジム・コルネットをマネージャーに迎え、ファビュラス・ワンズやミッドナイト・エクスプレスのメンバーだったスタン・レーンとヘブンリー・ボディーズ(The Heavenly Bodies)なるタッグチームを結成。ドクター・オブ・デザイア(Doctor of Desire)をニックネームに、ファンタスティックスやロックンロール・エクスプレスとタッグ王座を争った。 1993年、当時SMWやUSWAとの業務提携を開始していたWWFに登場。8月30日のサマースラムではヘブンリー・ボディーズの新パートナーであるジミー・デル・レイとのコンビで、リック&スコットのスタイナー・ブラザーズが保持していたWWF世界タッグ王座に挑戦した。1994年5月には、デル・レイとのヘブンリー・ボディーズで全日本プロレスに来日している。 SMWが活動を停止してからはコルネットと共にWWFとフルタイム契約を結び、1996年にはスキップことクリス・キャンディードと女性マネージャーのサニーのザ・ボディードナーズ(The Bodydonnas)に加入。スキップのタッグパートナーとしてジップ(Zip)を名乗り、3月31日のレッスルマニア12で行われた王座決定戦でヘンリー&フィニアスのザ・ゴッドウィンズを下しWWF世界タッグ王者となった。 ボディドナーズ解散後はWWFのスタッフ(タレント・スカウト、ロード・エージェント、トレーナー)となって活動。トレーナーとしてはカート・アングルをはじめ数々のスター選手を指導している。リングで試合をすることになったビンス・マクマホンやシェイン・マクマホンのトレーニング相手も務め、番組内のスキットにも登場した。また、ダイジェスト番組のカラー・コメンテーターやWWE.comでの自身のコラム執筆なども手掛け、多才ぶりを発揮。WWE.comでは、トーク・コーナー "Byte This" のホストも担当していた。 2004年にWWEを解雇されてからは各地のインディー団体でトレーナーを務める一方、選手として試合にも出場。2005年5月13日にはリック・スタイナーを破り、インディー版のタイトルとして復活したNWAアラバマ・ヘビー級王座を獲得した〔。 2007年、ファーム団体の選手を指導するデベロップメント・トレーナーとしてWWEと再契約。スティーブ・カーンが主宰するFCWのヘッド・トレーナーを2012年まで務めた。また、WWEでの活動と並行してインディー団体のレスリング・スクールでもセミナーを開講し、後進の指導・育成に尽力している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トム・プリチャード」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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