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トラウト・マスク・レプリカ (Trout Mask Replica) は、1969年にリリースされたキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドの3枚目のアルバムである。プロデュースはビーフハートの高校時代の同級生であり、友人のフランク・ザッパが担当した。ブルースや実験音楽、フリー・ジャズ等、様々なジャンルの音楽を取り入れた本作は、後のオルタナティブ・ロックやポスト・パンクに多大な影響を与えた重要な作品として認知されている。本作についてBBCの伝説的DJであるジョン・ピールは、「ポップ・ミュージックの歴史において、音楽以外の領域で活動する芸術家たちにも理解し得る、芸術作品として見なすことが出来る音楽作品が存在するとしたら、おそらく『トラウト・マスク・レプリカ』がそのような作品である」と述べている。2003年にはローリングストーン誌の500 Greatest Albums of All Timeの第58位、2012年版には第60位に選出された。 == 背景 == キャプテン・ビーフハートとマジック・バンドはデビュー当初からレーベルとの契約に頭を悩ませてきた。A&Mがファーストシングル(ボ・ディドリーのカバー曲"Diddy Wah Diddy")をリリースしたが、最初のシングル2枚がヒットしなかったことによりすぐに契約を打ち切られてしまう。その後ブッダ・レコードがバンドにとって、またブッダにとっても最初のアルバムであった『セーフ・アズ・ミルク』(Safe As Milk)をリリースするが、直後にブッダ・レコードはビーフハートとマジックバンドには縁もゆかりも無いバブルガム・ポップ路線を志向し、またもやバンドは所属先を失ってしまう。バンドは1967年の終わりから1968年の春にかけて、後に『ストリクトリー・パーソナル』(Strictly Personal)、『ミラーマン』(Mirror Man)として発売されるレコーディングセッションを何度か行ったが、当時の契約問題によりセッションで録音した音源が発売されるかどうかすら分からない状況であった。 同じ頃、ビーフハートの高校時代の同級生であるフランク・ザッパはビザール・レコード、ストレイト・レコードという自身による2つのレーベルを設立した。契約問題に苦しんでいたキャプテン・ビーフハート(ザッパが与えた名前である)に対し、ザッパは完全なる芸術的自由の中で制作を行うことを提案した。その結果として『トラウト・マスク・レプリカ』が完成した。 マジックバンドは8ヶ月に渡る、ビーフハートによって作られた難曲のためのリハーサルを1日12時間行いながら、集団でロサンゼルス郊外にあるウッドランド・ヒルの小さなレントハウスで暮らしていた。ビーフハートはメンバーの完全なる芸術的・感情的支配を行うことで彼の構想を実行した。フレンチは当時の状況を「カルトじみていた」と回想し、レントハウスを訪問した友人は「まさにマンソン・ファミリーのような環境だった」と形容した。また、バンドメンバーは金銭や食料といった物質的環境においても切迫していた。生活保護金と親類からの仕送り以外にバンドの収入はなく、フレンチによればカップ一杯の大豆だけでひと月を過ごしたこともあったという。あまりの苛酷さに、バンドメンバーが食品の万引きで逮捕されたこともあった(ザッパが釈放した)〔French,John (2010). Beefheart: Through the Eyes of Magic. pp=389-391〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トラウト・マスク・レプリカ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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