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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
トラリー(、(リー の河口の意))は、アイルランド南西部の町。ケリー州の州庁所在地である。 ディングル半島の付け根の北側に位置する。郊外を含めた人口は州内最大の2万2744人(2006年国勢調査)。 == 歴史 == トラリー湾の奥の沼沢地に位置するトラリーは、スリーブ・ミッシュ山地を越す街道の宿場町であった。道沿いにはエジプトのファラオの娘の埋葬地とされる、「スコシアの墓」 (Scotia's Grave) という巨石がある。市街は13世紀、アングロ・ノルマン人によって建設され、デズモンド伯の根城になった。いまも中世の城やドミニコ会の修道院が残るが、市街はエリザベス女王に抗するデズモンドの乱さなかの1580年に焼失。1587年にエドワード・デニー卿の所領となり、1613年に王室から町と認可された。エドワード卿は歴代のデズモンド伯が住まった居城に入城し、デニー家で初めてトラリーに居を定めた。息子のアーサー・デニーの代にはジェームズ1世から勅許をたまわり、議会に2名の代議士を送り込めるようになった。初代と同名の3代エドワード卿はロイヤリストで、1641年の戦争に王党派として参加、クロムウェルの勝利が目睫に迫った1646年に亡くなった。その息子のアーサーは西ケリーの大立者で、トラリーの領有を主張していたリチャード・ボイルの孫、エレン・バリーと結ばれた。 第4代バロンのエドワード・デニー卿はジャガイモ飢饉の際、小作料を吊り上げる地主らを尻目にそれを据え置きとおしたプリマス・ブレザレンとして名高い。 1798年のアイルランド大反乱を記念するアルバート・パワー作の槍兵像が、デニー街に建っている。 トラリー裁判所はリチャード・モリソン卿の設計で、1835年に建てられた。クリミア戦争とインドの大反乱に従軍したケリー出身者を悼む2門の大砲がある。 デニー街のはずれにあるアッシュ記念会館は、1916年のイースター蜂起を導いた民兵の首領、トマス・アッシュを記念し建てられた。地元の砂岩でつくられた館内には、ケリー州博物館とかつての街並みの再現がある。 ドミニコ会聖心教会はゴシック・リヴァイヴァル建築で知られるオーガスタス・ウェルビー・ノースモア・ピュージンの設計で、19世紀に建てられた。 1919年から1923年までの独立戦争とアイルランド内戦のあいだ、トラリーは甚大な被害をこうむった。1920年11月には王立アイルランド警察隊 (RIC) の2人の隊員を拉致・殺害したアイルランド共和軍 (IRA) への報復として、ブラック・アンド・タンズに包囲された。タンズは地元の経済を麻痺させ、1週間のあいだ食糧供給を閉ざした。さらに数軒の家屋を焼き払い、市民3人を銃殺した。市内すべての産業にIRAとのコネがあると主張した。飢餓寸前の状態にトラリーは瀕しているなどと新聞が書きたてたため、この件は国際的に激しい非難を受けた。 1922年8月には近くのフェニットにアイルランド自由国軍が上陸、反英愛条約派の兵営からトラリーを攻略した。この局地的戦闘により条約派で9人、反条約派で3人の兵が斃れた。共和派はなおも周辺地域でゲリラ戦を展開した。翌年3月に郊外の刑務所からIRAのメンバーが自由国軍の支援で脱走し、バリーシーディー郊外で地雷を爆破する残虐行為をはたらいた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トラリー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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