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トルチュ島 ( リダイレクト:トルトゥーガ島 ) : ウィキペディア日本語版 | トルトゥーガ島[とるとぅーがとう]
トルトゥーガ島()は、カリブ海北部ハイチの島。フランス語の名称はトルチュ島(')、ハイチ語ではラトーチュ()。人口22,080人(1982年)。17世紀に海賊で栄えた島として有名。面積はおよそ180km²。1984年時の人口は 22,080 人〔''Britannica online'' 2006.〕。)、ハイチ語ではラトーチュ()。人口22,080人(1982年)。17世紀に海賊で栄えた島として有名。面積はおよそ180km²。1984年時の人口は 22,080 人〔''Britannica online'' 2006.〕。 == 海賊の時代 ==
イスパニョーラ島の北西沖にある亀の形をしたこの島は、天然の良港と水に恵まれている。ここを拠点とすれば、スペイン輸送船の航路であるエスパニョーラ島とキューバとの間のウィンドワード海峡を抑えることができたことから、17世紀前半からは海賊(バッカニア)たちの溜り場となった。 1625年にイギリスとフランスの海賊たちが入植し、1629年にはファドリケ・デ・トレド率いるスペイン軍が占領し砦を築いたが、翌年にフランス人に奪われ、フランス人は港にロシェル砦を築いた。島はフランスとイギリスに2分され、遅れてオランダもやってきた。海賊たちは共同生活を行い、彼らが気前よく浪費するために歓楽街も発達した。1633年には最初の黒人奴隷が到着した。だが治安は悪く、「世界の掃き溜め」などと呼ばれていた。スペイン海軍は海賊たちを一網打尽にしようと何度か軍艦を送り占領したが、すぐに奪い返された。1645年にはフランスが海賊の定着を図り、1650人の娼婦を輸入した。1670年代から海賊の時代に陰りが見え始め、島から木材を切り出して貿易を行う者が出だした。ウェールズ出身の海賊ヘンリー・モーガンも船員を募りに島を訪れた。 海賊の勢力は、1680年にイングランド法で外国船での海賊行為が禁じられたため衰退した。1684年のラティスボン条約でフランスとスペインが和平を結び、海賊が略奪の対象を失うと、海賊達はかつての味方と敵対し合うようになった。また1697年には、レイスウェイク条約でサン=ドマングの領有権はフランスに移された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「トルトゥーガ島」の詳細全文を読む
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