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ソルヴァルド・コズラーンスソン(トルヴァリド・コドランソン)(、、950年頃 - 1002年以降)は、アイスランド出身の伝説的なキリスト教の宣教師かつ旅行家であり、「Pallteskja」または「Pallteskiuborg」(現ベラルーシ北部の市・ポラツク。当時ポロツク公国の首都であったポロツクとされる。)に洗礼者ヨハネ修道院を建設したとされる人物である。ソルヴァルドの冒険譚は、アイスランドの『オーラヴ・トリュッグヴァソン王のサガ』、『』、『平たき島からの書』に所収される、「」に記されている。 ==生涯== ソルヴァルドはアイスランド北部のスカーガフィヨルズル付近で生まれた。青年時代にはデンマーク王スヴェン1世(ノルウェー王、イングランド王を兼ねる。)に仕え、軍事に関する職工に携わっていた。ソルヴァルドは情け深く、捕虜となった同郷人を買い戻し、自由の身へと戻らせていた。また、アイスランドでキリスト教の教えに触れた。980年ごろ、職を捨ててザクセン公国に渡ると、司教フリドレクから洗礼を受けた。 981年、ソルヴァルドはフリドレクと共に、布教の使命を帯びてアイスランドに帰還した。2人によって、アイスランド最初のキリスト教教会が開設されたが、同郷の異教徒らはソルヴァルトを嘲笑した。激高したソルヴァルドは、ソルヴァルドらに悪意を示し、わずらわしく感じられた人物2人を殺した。これによってソルヴァルドらは、アイスランドから早急に逃亡する必要に迫られた。 985年、ソルヴァルドはビザンツ皇帝バシレイオス2世、コンスタンティノープル総主教(ru)ニコラオス2世(ru)との会見のためにコンスタンティノープルへと派遣された。エルサレムを経由し、コンスタンティノープルに到着したソルヴァルドは、会見において、「東バルトの地のルーシの公」に対するビザンツ全権大使に任命するという勅書を与えられた。この、ルーシの公を頂く東バルトの地とは、おそらくポロツク、ノヴゴロド、プスコフを意味している。 986年、ソルヴァルドは同僚のステヴニル・ソルギルスソンと共にドニエプル川に沿って北上し、キエフを通過してポロツクに至った。ポロツク公ログヴォロド(ru)が支援の意を示したため、ソルヴァルドらはポロツクへの滞在を決めた。ドロフナという山に教会が開設され、洗礼者ヨハネ修道院が開かれた。また、ポロツクではソルヴァルドと、著名なヴァイキングで、後にノルウェー最初の聖人となるオーラヴ(995年よりノルウェー王)との面会がなされた。 おそらく1002年以降に、ソルヴァルドはポロツクで死亡した〔Мельников, А. А. Путь непечален. Исторические свидетельства о святости Белой Руси / А. А. Мельников. — Минск : Изд-во Белорусской Православной Церкви Московского Патрирхата, 1992. — С. 18.〕。後にポロツクを訪れたスカルド詩人(古代スカンディナヴィアの吟遊詩人〔『コンサイス露和辞典』p999〕)は、ソルヴァルドは聖ヨハネ教会の傍らの山に埋葬され、聖人として崇拝されている、という主張を残した〔Джаксон, Т. Н. Austr í Görðum : древнерусские топонимы в древнескандинавских источниках. — М.: Языки русской культуры, 2001. 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ソルヴァルド・コズラーンスソン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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